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皆様、ごきげんよう。
初登場の桂小五郎です。いご、お見知りおきを。
今回は、長州藩が下関にて外国船に砲撃を挑んだ時の話をさせて頂こうと存じます。
もともと長州藩は萩が本拠地でしたが、周布政之助様ら改革派の主導の元、藩主・毛利敬親様は、1863年、山口に藩庁を築いて政務の本拠地を移しました。
もっとも、江戸幕府には内緒だったんですけどね。
そして、関門海峡を往来する外国船に対して、砲撃を行う準備を進めたのですが、その関係で、高杉晋作殿や伊藤博文殿も下関に滞在することが多くなったのです。
そのため、下関で芸者遊びもすることがあり、伊藤博文殿や高杉晋作殿は、美人な芸者と良い仲になってしまわれたと言う事です。
実は、2人とも既に結婚して正式な奥さんがいたのですが、下関の芸者を「妾」とした訳ですね。
今で言いますと「不倫」と言う事になりますが、もっとも武家社会では許されることでもありましたので、当時珍しいと言う事はありません。
伊藤博文殿は功山寺挙兵のあとの頃ですから、1865年ですかね?
お相手は、伊藤梅子殿で、のちに正妻と離婚して、妻に迎えています。
高杉晋作殿は1863年だと思いますので、そういう意味では高杉晋作殿の方が偉大な先駆者です。
お相手は、おうの殿ですね。ただ、高杉晋作殿は結核で1867年に亡くなってしまいましたので、そういう意味では、可哀想な女性でした。
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高杉晋作でございます。
桂殿、なんか言いたい放題、おっしっゃているようで?
おっと高杉殿、まぁいいではないか?
過ぎたことですしね。
過ぎたことだとは、ひどすぎですよ。
私は、梅子殿を好きになっただけです。
伊藤博文殿も出てきおったか~?
高杉も伊藤も、私より年下にも拘わらず、まったく何をやっていたのですか?
桂殿は、われらの中で一番年上と言う事もありますが、近江屋事件の前である、1861年に、京にて幾松殿と知り合い、1864年には駆け落ち?をなさったではないですか?
しかも、こんな事を言いたくはありませんが、私が梅子と下関で知り合った頃には、桂殿も幾松殿と山口で一緒にお住まいではなかったですか?
いやいや、あれは駆け落ちではないぞ?
禁門の変で敗れたあと、京で隠れていたのだが、残党狩りが厳しくなっての、幾松も狙われたゆえ、一緒に逃亡したのじゃ。
また、私は、既に妻がいたと言う事ではないから、健全な付き合いであったぞ。
でも、伊藤殿には、京都で世話になり申した。幾松が他の男に取られそうになった時、手伝ってくれたからの。
私は結核で早く死んでしまったら、詳しい事を聞きそびれていましたが、2人ともなにをしていたことやら?
まぁ、でも、その後、明治になっても、おうのを援助して頂き、お二人や他の皆々には感謝致しておりまする。
豊臣秀吉じゃ~。
全く、お主らは女好きじゃの~?
何? ワシに言われたくないだと? 余計なお世話じゃ~。
女の話があるところには、必ず出没したいだけじゃ~。
しかし、外国船を砲撃したと言う話はどこに行ったのじゃ~?
と言う事で、次回の話題も、どうぞお楽しみに~。 (^-^)
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