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真田幸村にございます。
どうも、皆様、お元気に過ごされておられますかな?
最近、九度山で退屈な日々を過ごしておるゆえ、今日は、ワシの「初陣」とも言われている、1590年、豊臣秀吉様の小田原攻めの話でも少ししようかと思いまする。
北条氏直殿と言うよりは、実質、北条家を仕切っておられた、隠居の北条氏政殿がウンと言わず、北条家は殿下・豊臣秀吉様に挨拶に行かなかったため、20万の大軍で小田原城を包囲した時です。
真田家は、前田利家様を大将にした「北国軍」に、上杉景勝様・直江兼続殿と一緒に加わり、碓氷峠から関東に入りました。
もちろん、真田を率いたのは父上・真田昌幸にございます。
そうそえば、前田利家様のご家中には、かぶいておられた、前田慶次殿もおられましたぞ。と言うよりは、50前後のもうオジサマでしたがの。
最初、北国軍は松井田城を攻めた故、その戦いが、ワシの初陣ともされているが、今日は「八王子城攻め」の時の話を少しいたそう。
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松井田城、鉢形城、松山城などでは、降伏してきた北条家将兵の命は助けて参った。
北条家は各支城からも主力を小田原城に入れさせており、残された守備兵は老兵を中心に領民も加えても僅かであったこともあり、武士の情けでもあるからの。
そして、八王子城を包囲したのじゃが、武田家対策で新しく築いた、当時、関東では最新の山城であった。
規模的には2~3万で守るべき規模の城じゃったが、主力は小田原城に入れたため、籠城する将兵は領民・女・子供を入れても3000と、とても八王子城を守り切れる兵力ではなかった。
そこを3万5000の北国軍で包囲したのだ。
しかし、なかなか降伏しない小田原城に業を煮やした秀吉様は「八王子城は見せしめにせよ」と仰せになられたのじゃ。
当時の八王子城主は、北条家でも一番の軍略家であった北条氏照殿の拠点であった。
この北条氏照殿は、北条氏政殿の弟で、共に小田原城にて籠城し、八王子城は家老の中山家範殿らに守らせておったのじゃ。
そのような経緯もあり、八王子城では降伏する者も容赦なく切り捨て、籠城していた民はもちろん、百姓の女や子供に至るまで、血の海と化した。
本当にむごい話ではあった。
しかし、それだけに留まらず、更に、さくさんの首を相模川から船に乗せて小田原城近くの海まで運び、北条家の皆々に見えるよう、さらしたのじゃな。
さすがの北条氏照殿も、むごい仕打ちに泣いてわめいたと聞き及んでおる。
妻女殿も命を落としたからの。
しかし、我々からして見れば、北条殿が早くから豊臣家に臣従していれば、こんなことにはならんかったのじゃ。
20万の大軍に勝てる訳がなかろう?
でもの、八王子城で最後まで降伏せずに戦った、北条氏照殿の家臣らの勇猛な働きは、まだ若かったワシの心に響きおった。
勝てないとわかっていても、全力で戦うと言う心意気を思い知らされたからの。
と言う事で、話が長くなったので、これでおしまいにするが、次には機会があれば、石田三成殿と一緒に「忍城」を攻めた際の話でもしようかの?
それでは、さらばじゃ。
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