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真田幸村にござる。
大阪城は本当に華やかで壮大な城でござるが、暇もあるので今日は、松下村塾の「双璧」「龍虎」とも言われた久坂玄瑞殿と高杉晋作殿の話をしようかの。
年齢は高杉晋作殿が1歳年上だが、高杉家は高禄の家柄で、お金にも困らず遊女を連れて遊ぶなど、自由気ままのいわばお坊ちゃまじゃな。
久坂玄瑞殿は藩医の子で、14歳の時に母を亡くすと、兄・父も亡くなり、15歳で天涯孤独となり、自分で道を切り開いていくしかない苦労人であった。
しかし、最初の共通点と言えば、7~8歳の頃に「吉松塾」と言う漢学の寺子屋で一緒に学んでいたようじゃの。
そして、1856年に久坂玄瑞殿は九州へ3ヶ月間の遊学に出向いたのじゃが、その時、熊本藩士・宮部鼎蔵殿より「長州には吉田寅次郎と言う素晴らしい思想家がいるではないか?」と教わり、また月性上人からも勧められていた事から、萩に戻ると杉家で謹慎中の吉田寅次郎への手紙を書き届けてもらったのじゃな。
この手紙のやり取りが、実におもしろい。
知っておるか?幸村殿。
おっと、黒田官兵衛殿。ご無沙汰致しておりまする。
黒田殿は、久坂玄瑞殿の手紙の話をご存じでしたか?
無論じゃ。
最初、久坂殿は「外国の使者などは斬るべきだ」と強い攘夷の考えを吉田殿に示して、自分を高く評価してもらおうとしたようじゃな。
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しかし、吉田殿は「浅はかな考えだ。いまさら外国人を斬るのはもう遅い。もっと学べ」と、久坂殿に返書を送ったらしい。
当然、久坂殿は怒って吉田殿を斬るとまで言ったようじゃが、吉田殿は久坂殿の類まれな才能を手紙から察して、あえて批判する事で久坂殿をもっと成長させようと考えたようじゃ。
その後、久坂殿はどのようになさったのですか?
大河ドラマ「花燃ゆ」でも、描かれるのですかね?
ドラマではどのようになるかは、わからんが、聞くところによると、久坂殿は「宮部鼎蔵殿などは吉田松陰殿の事を見誤っているようだ。議論を望んでいるだけなのに、批判するとは何事か?」と返事を出したらしい。
そして、吉田殿は、1ヶ月も返事を出さずに、久坂殿を焦らしたあとに、このように返事を出した。
「これからの日本の行く末と言う大変重要な議論をするのにあたり、一時の感情で物を言うのは浅はかだ。久坂君の考えは自分より素晴らしい。言うのは誰でもできるが、もっと深く学び、更に自分の命を掛けて実行に移す事が大切だが、久坂君はまだそれをしていない。よく考えて行動することこそ大切なのだ。」と言う旨だったようじゃ。
こうして18歳になった久坂玄瑞殿は、翌年1857年の晩春に松下村塾に弟子入りし、幼な友達の高杉晋作殿にも入門を勧めたのである。
ちょっと、長くなってしもうたから、高杉晋作殿の話は、次回にでもしようかの?
すまんの。秀吉様に会いに行く途中じゃったからの。
わかりました。高杉殿が松下村塾に入った経緯は次回と言う事で、ありがとう存じます。
皆の衆も楽しみに待っていて下され。
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2015年 2月 20日トラックバック:高杉晋作が松下村塾に入門した逸話 幸村くんが語ります
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