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皆の衆、真田幸村にござる。
わしゃうち真田家とワシ幸村について、ちょこっと自己紹介するぞよ。
真田幸村と言うと「強い」と言う印象があるようで、最近は漫画やゲームとやらにも登場させて頂いておるようじゃが、ワシャはもともと武勇伝はないぞよ。
戦は1人だけで戦う物ではのうし、用兵に関しては、父・真田昌幸から学んだゆえ、それなりの自身はあるがの。
ワシは、もっとも次男であったからの、偉大な父や優れた兄のものに隠れて、実は、50歳近くで豊臣秀頼様や淀殿から大阪城に呼ばれるまでは「無名」と言っても過言では無かった。
実際、真田の者が大阪城に入ったと聞いて驚いた徳川家康殿も、真田昌幸ではなく、無名な次男だと知って、安堵したと言うからの。
何か、ワシの事を言ったか?
幸村殿。
おっとこれは、徳川家康殿。
その節は、大阪の陣でお世話になり申した。
大阪城での戦いの時は、ほんに気を燃やしたぞ。
敵ながらアッパレな戦いぶりじゃった。
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恐れ入りまする。
それがしが後世で語り継がれるようになったのも、家康様のお蔭でござりまする。
命は落としましたが、悔いはなく、思う存分戦えましてござりますね。
しかし、関ヶ原の戦い以後、15年近く、戦が無い年が続きましたゆえ、実戦慣れしていない敵兵が多かったのも、真田丸での防御は有利だったと存じまする。
ワシは織田信長様や豊臣秀吉様のやり方から学んだように、そちも真田昌幸殿から、どうやったら徳川を困らせる事ができるか、散々に知識を吸収したようじゃの。
大坂の陣のあとも、兄・真田信之殿には目を掛けて、松代藩として真田家が存続する様、配慮したからのご安心願いたい。
重々、存じておりまする。ほんに、感謝申し上げる次第です。
しかし、お見事に天下を制して徳川幕府を安泰な長期政権と致しましたの。
そういう意味では、徳川殿はまさに大器でござりまする。
ワシもその後、雲の上からしかと見定めさせて頂きました。
そうかそうか。ワシもなんとか長生きしようと、自ら薬を作ったりしていたのじゃが、どうも、天ぷら?を食べたのが、いけなかったようでの?
気づいたら死んでおったため、自分でも、何が原因だったか、ようわからん?じゃがの。
ただ、そちも、実は生きておって薩摩に逃げただとか噂も耳に入ったから、正直、ビクビクすることもあったぞよ。
その件に関しましては、ノーコメントと言う事で、お願い申し上げまする。
と、言う事で、今回はあまり意味のない会話になってしまった気も、しないではないですが、皆の衆、またお会いしましょうぞ。
そうそう、サイドバーとやらに「メール購読」もあるようじゃからの、新しい記事が投稿されたら、受信することもできるそうじゃので、もし気が向いたらよろしくお頼み申す。
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