真田幸村 見参 今日はワシのことを家康殿と語ろうぞ


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真田幸村 皆の衆、真田幸村にござる。
 わしゃうち真田家とワシ幸村について、ちょこっと自己紹介するぞよ。

 真田幸村と言うと「強い」と言う印象があるようで、最近は漫画やゲームとやらにも登場させて頂いておるようじゃが、ワシャはもともと武勇伝はないぞよ。

 戦は1人だけで戦う物ではのうし、用兵に関しては、父・真田昌幸から学んだゆえ、それなりの自身はあるがの。

 ワシは、もっとも次男であったからの、偉大な父や優れた兄のものに隠れて、実は、50歳近くで豊臣秀頼様や淀殿から大阪城に呼ばれるまでは「無名」と言っても過言では無かった。

 実際、真田の者が大阪城に入ったと聞いて驚いた徳川家康殿も、真田昌幸ではなく、無名な次男だと知って、安堵したと言うからの。

家康くん 何か、ワシの事を言ったか? 
 幸村殿。

真田幸村 おっとこれは、徳川家康殿。
 その節は、大阪の陣でお世話になり申した。

家康くん 大阪城での戦いの時は、ほんに気を燃やしたぞ。
 敵ながらアッパレな戦いぶりじゃった。


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真田幸村 恐れ入りまする。
 それがしが後世で語り継がれるようになったのも、家康様のお蔭でござりまする。
 命は落としましたが、悔いはなく、思う存分戦えましてござりますね。
 しかし、関ヶ原の戦い以後、15年近く、戦が無い年が続きましたゆえ、実戦慣れしていない敵兵が多かったのも、真田丸での防御は有利だったと存じまする。

家康くん ワシは織田信長様や豊臣秀吉様のやり方から学んだように、そちも真田昌幸殿から、どうやったら徳川を困らせる事ができるか、散々に知識を吸収したようじゃの。

 大坂の陣のあとも、兄・真田信之殿には目を掛けて、松代藩として真田家が存続する様、配慮したからのご安心願いたい。

真田幸村 重々、存じておりまする。ほんに、感謝申し上げる次第です。
 しかし、お見事に天下を制して徳川幕府を安泰な長期政権と致しましたの。
 そういう意味では、徳川殿はまさに大器でござりまする。
 ワシもその後、雲の上からしかと見定めさせて頂きました。

家康くん そうかそうか。ワシもなんとか長生きしようと、自ら薬を作ったりしていたのじゃが、どうも、天ぷら?を食べたのが、いけなかったようでの?
 気づいたら死んでおったため、自分でも、何が原因だったか、ようわからん?じゃがの。
 ただ、そちも、実は生きておって薩摩に逃げただとか噂も耳に入ったから、正直、ビクビクすることもあったぞよ。

真田幸村 その件に関しましては、ノーコメントと言う事で、お願い申し上げまする。

 と、言う事で、今回はあまり意味のない会話になってしまった気も、しないではないですが、皆の衆、またお会いしましょうぞ。
 そうそう、サイドバーとやらに「メール購読」もあるようじゃからの、新しい記事が投稿されたら、受信することもできるそうじゃので、もし気が向いたらよろしくお頼み申す。

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関ヶ原実用観光マップ作りました〜関ヶ原の戦い史跡観光スポット情報

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