高杉晋作~尊王攘夷にかけた青春

高杉晋作

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江戸時代末期、黒船来航により開国間もないころ、政権を握る徳川幕府はすでに衰退の一途を辿り、日本、そして長州は他国からの侵略という脅威にさらされていた。
この動乱の時代に、長州を救い日本の歴史を動かした異端児が現れた。
奇兵隊の創設者として知られる高杉晋作である。
徳川幕府の倒幕、そして近代日本の幕開け。
そのきっかけを創り出したといっても過言ではない、幕末の英雄、高杉晋作の生涯に迫ってみたい。

高杉晋作

高杉晋作(たかすぎしんさく)
諱・春風(はるかぜ)
字・暢夫(ちょうふ)

1839年(天保10年)長門国荻城下(現山口県荻市)長州藩士の高杉小忠太の長男として生誕。
1857年(安政4年)晋作19歳のとき、吉田松陰が主宰する松下村塾に入塾。
ここで晋作は松陰との運命的な出会いを果たす。
松下村塾には伊藤俊輔(後の日本国初代総理大臣・伊藤博文)、山県狂介(後の第3第総理大臣・山形有朋)、後の第3代奇兵隊総督・赤禰武人らがいた。
ここで松陰から学んだことが、後の晋作が成し得ることとなる偉業に大きな影響を与えたといえる。
1859年(安政6年)10月、安政の大獄により幕府に捕らえられていた松陰が処刑された後の1862年(文久2年)師であった松陰が果たせなかった外国視察という夢を、晋作は上海留学というかたちで代わりに果たすこととなる。
それ以後、晋作は幕末の志士として尊王攘夷運動、そして奇兵隊結成といった、後世まで語り継がれる、世を大政奉還へと導く獅子奮迅の活躍を見せるこになるのだった。

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高杉晋作に芽生えた倒幕の思想

松下村塾という長州・荻で吉田松陰が開いていた小さな塾の門を高杉晋作は叩いた。
当時江戸幕府によって設けられていた士農工商という理不尽な身分制度に関わらず、松陰は学ぶ意欲さえあれば誰でも自分のもとで学ぶことを許していた、現代的思想の持主であった。
そこで晋作をはじめとする塾生が松陰の講義で学んだことに当時の国際情勢の問題があり、このことが後に倒幕という歴史を覆す大偉業を成し遂げる志士となる若き彼らに、大きな影響を及ぼすことになったといってもいいだろう。

その頃実際に日本を取り巻く国際情勢は風雲急を告げており、他国からの侵略の手は間近に迫っている状況だったのだ。
ところが、衰退化した幕府はその現実から目を逸らし、政権の維持と自分たちの地位や生活の保守だけを優先し、他国の侵略から国民を護るという大義の思想を見失っていたのだ。
アメリカからの圧力により開国させられた当時の日本国民は侵略の脅威に怯えていた。
松陰はそんな幕府の外交政策を批判するなどの運動を行っていたが、1859年(安政6年)伏見要駕策(天皇へ幕府失政の糾弾を行う)や間部要撃策(老中・間部詮勝暗殺計画)などの計画露呈により処刑される。

師であった松陰を失った晋作は、師が果たせなかった外国視察という夢を上海留学によって果たすが、晋作が上海で見た光景は驚愕するものであった。
イギリスとドイツの侵略により中国、上海の人々は奴隷のような扱いを受けていた。
この状況を目の当たりにした晋作は、近い将来日本に訪れるかも知れぬ危機感を抱くことになる。
帰国した晋作はついに倒幕の意思を公に表すことになる。

尊王攘夷そして奇兵隊結成

このまま日本命運を徳川幕府に任せておくわけにはいかぬ、そう考えた晋作は長州に還り幕府打倒、そして攘夷を志すも、長州藩の保守派は言動を慎むように諭す。
業を煮やした晋作は自ら藩を離れる。
だが、風雲急を告げる時代は高杉晋作という男を必要としていた。
開国に反対の姿勢を崩さない長州藩は、関門海峡に迫った外国船を砲撃する。
しかし、その直後外国艦隊の報復に惨敗を喫してしまう。
俗に云う下関戦争だが、このときのアメリカ・フランス・オランダなどとの戦力・兵力の差を見せつけられた長州藩士・毛利敬親は、外国連合軍のさらなる攻撃も予想される危機的状況に、藩を離れていた高杉晋作に助力を求めることとなる。
そこで晋作は外敵に対抗する軍隊の創設を提案し、藩主にこう答えたと云う「有志の士を募り、一隊を創立し、名づけて『奇兵隊』といわん」と。
そしてついに1863年(文久3年)6月7日、郷土の守護と攘夷の名のもとに結成されたのが奇兵隊であった。
初代総督は高杉晋作である。
晋作は隊士を募るにあたり、かつて師である吉田松陰がそうであったように、希望者は志を持つ者であれば武士・商人・町人・農民といった徳川幕府が設けた士農工商という身分は一切いとわなかった。

想像して頂きたい。
これまでその志があろうとも、理不尽な身分制度によって、愛するものを護るために戦おうとする権利を抑圧されていた人々に、その権利が与えられたのだ。
そしてその権利を勝ち取ってくれたのが高杉晋作という男なのだ。
無論入隊志願者は殺到し、瞬く間に高い志を抱く数百名の人材が集まった。

そしてこの影響は長州全域に波及し、各地で朝市隊(商人で結成された隊)、遊撃隊(漁師で結成された隊)、豪勇隊(農民で結成された隊)、力士隊(力士で結成された隊)などといった諸隊といわれるさまざまな軍隊が結成された。
これらの諸隊の戦力を総合すると数千人となり、長州正規軍を凌駕するにまで膨れ上がったという。

高杉晋作が総督に就任した奇兵隊は、外敵の脅威にさらされていた下関の守備に就いていたが、それから数ヶ月後の1863年(文久3年)8月16日ことである。
農民や、町人など、武士以外の身分の者が武装することを快く思わない武士たちと奇兵隊士が対立し、やがて奇兵隊士が武士を斬り殺してしまうという事件が勃発する。
この教法寺事件の責任により、この年の9月、晋作は奇兵隊総督を解任されてしまうのだった。

このことから晋作は脱藩し、京都へ行き潜伏していたが、桂小五郎(後の木戸孝允)の説得により長州へ帰郷。
しかし脱藩の罪から投獄の後、出所してからも謹慎処分とされるのだった。
ところが、それから間もなく、長州は再び晋作を必要とする事態に見舞われるのである。

連合軍との交渉(講和会議)

1864年(元治元年)6月5日、池田屋という京都の旅館で、幕府の命を受けた新選組に長州藩士が惨殺されるという、池田屋事件が起こる。
この事件に対抗し、同年7月19日、長州藩は京都に進攻し幕府軍と対決(禁門の変)するが、会津・薩摩をはじめとする多藩連合軍の前にあえなく惨敗してしまう。

このことにより幕府は長州を朝敵と見なし、武力討伐を決定し、第一次長州征伐が発令される。
しかも同時期である8月には前年に交戦したアメリカ・フランス・オランダに加えイギリスまで参戦した四ヶ国連合艦隊が長州に進攻してきたのだ。
そして下関沿岸は外国艦隊に占領されてしまうのだった。

この、絶体絶命の滅亡の危機に陥った長州藩が、最後の望みをかけたのが、またもや高杉晋作の存在であった。
再び藩に呼び戻された晋作は、外国連合軍との交渉の任を命じられ、8月8日イギリス海軍提督との講和会議に臨むこととなる。

交渉の場では、連合国側から講和条約の条件が幾多も提示されたが、晋作は提示された条件のほとんどを受け入れた。
だがその中の300万ドル(現代の日本円にして約900億円)の要求と、彦島という下関南端の島の領土租借の要求については一歩も退かず、断固として拒否したという。
300万ドルの賠償金要求については、責任を幕府に背負わせ、連合国側も幕府に要求することになった。
彦島の租借要求についても晋作は毅然とした態度で拒否の姿勢を貫き、要求取り下げに成功したという。
これは、晋作の上海留学の経験から、領土租借が植民地支配に繋がるということを見越してのことだと考えられる。
こうして晋作は、外国連合軍からの占領という危機から、長州を救ったのだった。

交渉に臨む晋作の姿を、イギリス人の通訳は「魔王のごとく傲然とした姿であった」と記しており、また講和会議の席に後の総理大臣・伊藤博文も通訳として同席していたとされ、後の伊藤の回想によると、もし彦島の租借要求を受け入れていれば「大きく歴史は変わっていた」と記している。

功山寺挙兵から大政奉還へ

長州藩には、幕府による武力討伐という危機も間近に迫っていた。
幕府の討伐軍は約15万に対し長州藩は約4千と圧倒的な戦力の差があった。
この頃、長州藩内部では幕府に降伏を意を唱える保守派が多数を占めており、幕府に抵抗する姿勢を崩さない、晋作たちの身も危険な立場に追い込まれていた。
晋作は保守派のことを俗論派、幕府に抵抗する者を正義派と呼び、俗論派は幕府に許しを請う目的から、正義派の追放を計り、命を狙うという暴挙にでる。
晋作自身にも暗殺者による危険が及んでいた。
そして元治元年10月には、晋作は一旦、福岡に逃れ身を隠すこととなる。

1864年(元治元年)11月、ついに徳川幕府・長州討伐軍は15万もの大軍で長州藩を包囲することとなった。
幕府は長州藩に対し降伏を迫り、そしてその条件として、家老3名の切腹を要求する。
これに長州藩保守派は屈し幕府の要求を受け入れ、正義派から家老3名の切腹、参謀4名の処刑を行う。
その知らせが福岡にいた晋作のもとへも届くと、晋作は再び立ち上がり、長州奪還、そして攘夷の志を貫くために下関へ帰還する。

帰還した晋作は奇兵隊をはじめ、長州藩諸隊に保守派打倒のため決起を促す。
このとき晋作不在の奇兵隊の総督に就任していた赤禰武人は、晋作の申し入れを拒絶。
それでも晋作は長州を護り、日本を改革する志ある者の参加を功山寺にて待つのだった。
1864年(元治元年)12月15日の夜、晋作の待つ功山寺には伊藤博文が率いる10数名の力士隊、石川小五郎が率いる約60名の遊撃隊らが集まり、高杉晋作はついに功山寺にて挙兵した。

やがて正義を掲げる晋作のもとには町人や農民など、次々に志願者が集い、奇兵隊士や諸隊の隊士も加わり、晋作の軍は約3000までになった。
1865年(慶応元年/元治2年)1月7日、高杉晋作率いる正義派の軍と、保守派(俗論派)の軍が対決する。
士気も高く、近代兵器を駆使した高杉軍は旧式装備の保守派を圧倒したのだった。
この勝利により、長州藩から保守派は追放され、正義派が藩の実権を掌握するに至ったのだった。
その光景を見届けた晋作は静かに長州を去っていった。

その後、桂小五郎、伊藤俊輔(伊藤博文)らと推し進めていた、薩摩藩と長州藩による同盟が、土佐藩士の坂本龍馬中岡慎太郎らの仲介により実現。
1866年(慶応2年)1月21日、薩長同盟(薩長盟約)が締結された。

慶応2年6月には幕府による第二次長州征伐が行われたが、晋作はまたしても長州に戻り、海軍総督として長州軍を指揮し、幕府の長州討伐軍を打ち破った。
これにより、幕府の勢力は弱まり、権威も失墜していく。
政権を維持することは難しい状況に追い込まれていくのだった。
そして1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府、第15第将軍・徳川慶喜は、江戸幕府による政権を明治天皇に返上することを奏上する。
10月15日、明治天皇は奏上を勅許し、大政奉還が行われた。



だが夢に見たこの光景を、晋作は見ることは叶わなかった。
1867年(慶応3年)4月14日、肺結核に侵され療養中だった晋作は明治維新を目前にこの世を去っていたのだ。
享年29歳であった。
あまりに短く華々しい、波乱に満ちたその生涯は、今この瞬間を全力で生きる大切さを教えてくれているように思える。
晋作は死の直前に、こう言い残している「ここまでやったのだから、後はしっかりやってくれろ」と。
近代日本を切り開いてくれた男のこの言葉を、後世の人々はどう受け止めるのであろうか。

(寄稿)探偵N

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