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TBSの時代劇ドラマ「水戸黄門」は水戸藩の第2代藩主・徳川光圀(とくがわ-みつくに)をモデルにした内容となっています。
この徳川光圀は、水戸光圀とも呼ばれ、寺社改革や殉死禁止など善政を敷き、将軍・徳川綱吉の時代には、徳川一族の長老として幕府の政治にも発言力を持ち、庶民からは「天下の副将軍」と呼ばれました。
元々は水戸徳川家・徳川頼房の3男で、母・久子も奥付きの老女の娘で正式な側室でもありません。
そのため、家臣・三木之次の屋敷で生まれ、家督を継げる立場ではありませんでしたが、幼少時からの非凡であったと言います。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に八王子城で討死した、北条氏照の重臣・中山家範(中山勘解由)の子である、中山信吉が徳川家康の小姓(1500石)となると、徳川家康の11男・徳川頼房の家老になります。
この徳川頼房が、徳川御三家である水戸藩の初代藩主となり、家老の中山信吉が水戸光圀を将軍・徳川家光に推挙したとされ、水戸光圀は家光の一字を賜り、水戸藩を2代藩主となったのです。
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水戸光圀の最大の功績とも言えるのは「大日本史」の編さんです。
大日本史と言うのは、それまで日本が歩んできた歴史の大辞典のようなもので、その編集作業には多くの藩士が充てられて、実際に担当藩士が全国各地に赴いて伝承を聞き取り調査するなど大規模な事業となります。
そのため、水戸黄門の存命中に完成はせずに、その編集作業は200年以上掛かり、最終的には明治時代に完成しました。
なお、水戸藩の収入30%を使用すると言う大事業で、財政を圧迫しましたので、藩士の給料も削減され、また領民も苦しんだとされます。
しかし、幕府の命もあり、1690年に水戸黄門が西山荘へ隠棲すると、本格指揮もしました。
国家の歴史書を作ると言う事は、その国が遠い昔からあったと言う事実を、世界に知ら示すものであり、世界から歴史のある国だと認知されるためには、必要不可欠なものだと言う事も、恐らく水戸光圀は理解していたのでしょう。
ただし、日本各地を訪問したのは家臣らであり、実際の水戸黄門は藩内にはあちこち出掛けています。
しかし、水戸と江戸を往復した以外は、日光東照宮と鎌倉に1度旅行したのみで、本人はそんなに旅好きと言う訳ではありませんでした。
さて「水戸黄門」と言う名称ですが、これはのちの講談などで名づけられた名称です。
水戸光圀は中納言・権中納言に任命されていましたので、その「水戸中納言」の唐名(漢風名称)が「黄門さま」なのです。
水戸黄門と旅の供をする家臣の佐々木助三郎(助さん)と、渥美格之進(格さん)もモデルになった武士はいますが、創作上の人物です。
諸国漫遊しながら悪政を行なう代官などを懲らしめると言う「世直し」は、庶民から人気を博しました。
印籠を見せて「控え居ろう! この紋所が目に入らぬか」と言うセリフが人気の水戸黄門。放送が楽しみですね。
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