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誠の士道を貫いた近藤勇と土方歳三
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2020年5月公開予定の映画「燃えよ剣」は、鬼副長「土方歳三」を主人公とし新選組を描いた司馬遼太郎の人気小説が原作です。
今でこそ人気の高い「新選組」ですが、昭和初期までは極悪な賊徒であり、残忍な人斬り集団として長い間悪役として扱われていました。
歴史は勝者が作ると言います。もちろん現在の歴史は「明治維新」を起こした薩長が作っているため、彼らに都合の悪い物は消され捏造もされていました。何故なら彼らの行動は、やはりただの「テロリスト集団」だったからです。
今回は幕府の代わりに憎悪を一身に引き受け、命懸けで将軍を守ろうとした新選組の局長「近藤勇」と鬼の副長「土方歳三」の士道を紹介します。
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彼らから誠の士道を学び、日本人は今一度「忠義心」や「愛国心」を取り戻す必要があるでしょう。
武士になりたかった農民
近藤勇と土方歳三は、武蔵国多摩郡(むさしのくにたまぐん)生まれです。出身地の村は違いますが、二人とも農家の息子達でした。
何故百姓の息子が武士を目指したのかと言えば、土地柄が大きく係わっていたからでしょう。かつてこの土地には武田信玄の家臣団がいました。
武田家滅亡のきっかけとなる「天目山の戦い」後、徳川家康は行き場を失った武田の残党に土地を与えたのです。その土地は将軍直轄地となり、いざ何かあった時には将軍家のために働くという気概が生まれました。
以後この人々は「八王子千人同心」と呼ばれ、関ケ原の戦いや大坂の陣にも参戦。家康死後は日光東照宮や江戸の警備を務める武士団となっていくのです。
また近藤勇の義父である近藤周助が養子入りした近藤家も、新選組で共に戦った井上源三郎の兄も八王子千人同心だったのです。
ちなみに土方歳三の姉のぶ(とく)が嫁いだ佐藤彦五郎も、幕府の大名達が泊まる「日野宿組合」の名主でした。
普段は田畑を耕していても、いざとなれば戦に行って将軍様を守る!そんな多摩郡で生まれ育った近藤勇と土方歳三がなぜ武士に憧れ、将軍に終生忠義を尽くしたのかが分かるでしょう。
土方歳三が愛刀「和泉守兼定」も、実は武田信玄やその父である武田信虎が愛用していた刀だった為、何かしら拘りを持っていたのかもしれません。
二人の目的は攘夷ではなく将軍警護
幕末ではどうしても「尊皇攘夷派」と「開国派」、または「倒幕派」か「佐幕派」と二元論での敵対構造がクローズアップされてしまいます。しかし二元論で世の中を見てしまうと、正義VS悪のようにどちらか一方を悪者にしがちです。
では新選組は「攘夷派」だったのか?と言えば、彼らにそのような思想はありません。近藤と土方の意志は終生ただ一つ。将軍様を守ることのみでした。
当初彼らが京へ上ったのも、孝明天皇に攘夷を促された将軍「家茂」を警護する以外に目的はありません。将軍警護に出る八王子千人同心と共に、試衛館の仲間たちは京へ向かったのです。
そのため将軍警護と偽って浪人達を京に集めた清河八郎が、突如「尊王攘夷」を掲げ一度江戸に戻ると宣言した際、いの一番で異を唱えたのは近藤勇でした。
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近藤は「上様を守るために来たのだ」と清河の意見を拒否し、その結果近藤勇率いる試衛館メンバーと、芹沢鴨率いる浪人達が京都に残ることになったのです。
この時近藤が世相や流行りに乗るような若者であれば、清河と共にあっさり江戸へ戻ったのでしょう。もしそうであったなら「新選組」が誕生することもなく、近藤・土方の名も歴史に残されることはありません。
将軍の身代わりとなった近藤勇
元々ただの農民で、京に残ってからは会津藩お預かりの「浪士組」となったものの、乱暴狼藉を働く芹沢一派のせいで組内はまとまりません。
しかし文久3年8月18日の政変での働きが認められ、会津藩主「松平容保(まつだいらかたもり)」から「新選組」の名を賜ります。
これに感激し会津にも忠誠を誓った近藤らは、まず内部の規律統制のために芹沢一派を粛清しました。これ以後は近藤始め、試衛館の仲間たちが新選組の幹部となります。
近藤たちは街中で暗躍する「尊皇攘夷派」を取り締まるべく、会津藩に代わって市中警護をしていました。京の街は道が狭い上に、部屋の中は暗いので、探索や御用改めの時にはいつ斬りかかられるのかわかりません。
そのため新選組は見回りの際、日替わりで「死番」という一番に飛び込んで行く役目を決めていました。彼らが京の治安を守る為、日々命を懸けていたことが分かります。
元治元年6月5日、御所に火を点け孝明天皇を拉致し、松平容保を暗殺すると計画していた攘夷派を捕縛するために池田屋に襲撃したいわゆる「池田屋事件」が勃発。
応援出陣を引き延ばし中々来ない会津藩を待てず、近藤・土方は新選組だけで探索に出ます。二手に分かれ、近藤が率いていたのはわずか10名。
ドラマなどで近藤は「御用改めでござる!」「手向かいする者は容赦なく斬り捨てる!」と叫ぶのが定説でした。しかし2016年に発覚した会津松平家の資料によれば、池田屋事件での一声は「御上意!」だったと判明しています。
さて池田屋事件で名を挙げた新選組は、攘夷派の筆頭であった長州藩の激しい恨みを買いました。この事件以降、近藤勇の名は幕府内にも攘夷派にも広まっていきます。松平容保の信頼も篤く、近藤は禁門の変や長州征伐などを経てついに旗本の地位を手に入れました。
ついに念願叶い、本物の武士になれたのです。どのくらい嬉しかったでしょう。しかも御目見得以上の格となり、最後は将軍慶喜にも拝謁するほどになっていたのです。
しかし近藤の運命を左右する最後の時がやってきます。慶応3年12月9日「王政復古の大号令」が発令され、薩長が官軍となりました。
鳥羽伏見の戦いで敗れた新選組は江戸へ一度戻り、次は甲府でも敗走、そして最後は下総国流山の地で捕らえられてしまいます。
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鳥羽伏見の戦い後、近藤が命を懸けて守りたかった将軍慶喜は自分の妾と、松平容保、そして桑名藩主の松平定敬を連れて家臣を見捨て先に江戸へ逃げ帰りました。
更に同士だった永倉新八と原田左之助が隊を脱退し、頼りになる仲間を失いなっています。流山であっさり捕らえられた近藤の心中は、とても辛かったのかもしれません。
最終的には薩長の見せしめとして、武士に許される「切腹」ではなく罪人として「斬首」となった近藤勇。慶応4年4月25日板橋の刑場で近藤勇は、35歳の若さでこの世を去りました。
彼の辞世の句は「孤軍援(たす)け 絶えて俘囚となり 君恩を顧念して涙、更(ま)た流る」です。最後の最後まで、武士に取り立ててくれた将軍家に恩を感じ涙が出るという意味です。
恨むことも後悔することも無く、ただひたすらに将軍家への忠義を貫いて死んでいった近藤勇。彼の死はある意味で、武士の世が終わったことを告げたでしょう。
フランス師団の最高責任者となった土方歳三
近藤勇が捕らえられた後、土方歳三は彼の意志を受け継いで北へ北へと移動しながら戦い続けることになります。
土方歳三は鳥羽伏見の戦いで、薩長軍が使う西洋兵器に惨敗した時、武士の誇りである刀の時代は終わったと確信して服装や兵器も洋式に切り替えました。
土方は榎本武揚らと合流し、慶応4年(明治元年)10月20日蝦夷地に上陸後、函館の五稜郭を占拠します。
陸軍奉行は大鳥圭介で、土方はその下にいる陸軍奉行並という肩書でしたが、実は土方歳三がフランス軍事顧問団の四個師団の最高責任者を担っていました。
映画「ラストサムライ」のモデルと言われる、フランス陸軍士官「ジュール・ブリュネ」がフランスの上官に送った手紙の中に、土方歳三の名前があることが発見され判明したことです。
ブリュネは幕軍の軍事顧問団の一員で、本来江戸幕府が倒れた際に帰国命令が出ていましたが、軍に退役届を出して、榎本武揚らと共に蝦夷地へ向かった人物です。
彼が残した手紙には当時の編成が書かれており、「マルラン連帯」「カズヌーブ連帯」「ブフィエ連帯」「フォルダン連帯」という四つのフランス師団をまとめているのは、土方歳三だと名前が記されていました。
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本来フランス軍人たちは、軍事調練のために訪れた軍事顧問団。しかし函館戦争時には、その軍隊を日本人の土方歳三がまとめていたのだというから驚きです。
もし土方歳三を陸軍奉行に配置していれば、そして慶喜が逃げ出さなければ幕軍の士気は高まり、薩長を全力で倒すことができたのかもしれません。
北の大地で銃弾に倒れる
かつて鬼の副長と呼ばれた土方歳三も、函館に来てからは徐々に温和になっていきました。士気を高めるために、逃げ出す兵士へ「逃げれば斬る!」と脅し実際斬られた者もいます。
また奥羽列藩同盟の軍事総督を依頼された時には、規律を守るため「殺生与奪」の権利を与えよとも申し出ていますが、断られたため土方はそのまま蝦夷地へと向かうことになったのです。
しかし蝦夷地に入ってからの土方は、戦闘中以外は優しさを見せるようになり、兵士たちは母親を慕うように土方に心を許していました。
純粋に武士になりたくて、将軍家のために忠義を尽くした近藤勇と違い、土方は幕府に忠誠よりも近藤勇を守るために付いて行ったと言われています。
函館で少し温和になったのも、近藤が処刑されてしまい、土方が生きる指標を失ってしまったと表現されることが多いでしょう。
本心ではそうだったのかもしれません。しかし彼は蝦夷地に向かう前の仙台で、止める松本良順に対してこう言い残しています。「恩に報いるべきだ」と土方はやはり将軍家に対する恩を口にし、そのまま蝦夷地へと向かいました。
明治2年5月11日函館山から新政府軍の総攻撃が勃発。函館山の真下にある弁天台場では、新選組の隊士達が孤立奮闘していました。
土方は仲間を救うため馬に乗って駆け出します。途中一本木関門から敗走してくる兵士を阻止し、「この先逃げる者は斬る!」と土方は一喝し刀を抜きました。
兵士を鼓舞し自身も指揮に全力を挙げていたところ、銃弾が彼の腹を貫きます。土方は落馬して、見方も総崩れとなり旧幕府軍は敗走しました。
土方が銃弾に倒れたことを知った新選組隊士、大野右仲(うちゅう)は土方の元へ駆けつけましたが、すでに彼はこの世を去った後だったのです。享年35歳、奇しくも近藤と同じ年でした。
遺体は今もどこにあるか分かりません。五稜郭に運ばれたという証言はあるのですが、未だ謎に包まれたままです。
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近藤の後を追ったとも言われる土方ですが、彼の辞世の句にはやはり将軍家への忠義心が満ち溢れていました。「よしや身は 蝦夷とふ島辺に朽ちぬとも 魂は東の君やまもらむ」
自分の身は遠い蝦夷地で朽ち果てても、魂は将軍を守ると読んでいた土方歳三。彼もまた武士として、最後まで将軍家の忠義を貫いた男だったのです。
最後まで徳川に忠義を尽くした二人
徳川が天下を取り約260年。長きに亘る世襲制度は必ず歪みを生み出します。戦も無く外敵も来ない平和が200年以上も続けば、武士達はただの事務方役人に成り下がるのも当然でしょう。
現代の日本もまた、大東亜戦争以来75年間戦争はありません。しかし敗戦国だったが故に、様々な障害が未だ残されています。
愛国心を取り上げられ、官僚や政治家もスパイだらけで今も外圧を受け続けている中で、国民も総平和ボケの個人主義者と化しました。
経営者達は拝金主義となり、人材を軽視して氷河期世代を生み出しました。その頃から会社に対する忠義心は若者達から消え去ったのです。
現在「新型コロナウィルス騒ぎ」が約4ヶ月ほど経っても未だ収まらず、マスコミや野党は政権闘争を続けるばかりで足を引っ張り続けています。国民も不平不満を言うばかり…。
これではいつまで経っても解決への道は遠く、しっかりと情報も見極めなければお上次第では、奴隷と化すこともあるわけです。
尊皇攘夷を謳いつつ徳川憎しで倒幕に走った薩長は、手放しで褒めることはできません。しかし最初は皆、黒船襲来という未知なる国難に立ち向かうべく若者達が立ち上がったのは事実でしょう。
その中で最初から最後までブレず、幕府と将軍への忠義を貫いた近藤勇と土方歳三。彼らは世界のことより、一心不乱に政権を支えようとしていたのです。
そこに言い訳も逃げは無く、最後まで徳川の武士でいようとしました。しかし守るべき君主は早々に将軍の座を捨て逃走し余生を過ごします。
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共に最後まで戦ったはずの榎本武揚は、新政府でのうのうと生き延び、切腹するフリをして止める部下が指を落としてしまっても、何の責任も取っていません。
現代の官僚や政治家、経営者などのお偉いさんも責任を取りません。庶民は金さえあればと、個人主義に走りやはり忠義心を持つ人は消えました。
この国難を乗り越えるためには、今こそ「誠」の士道が必要です。上も下も団結し、自分の故郷である日本を守るために、愛国心や忠義心を近藤や土方に学ぶ時が来たのかもしれません。
(寄稿)大山夏輝
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