徳川家康と言う人物に迫る 性格や死因は?

徳川家康

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徳川家康は剣術、砲術、弓術、馬術、水術等の武術についても優れていたとされるが、学問などでも学習能力が高く勉強好きで、多趣味、凝り性、倹約家でもあった。

身長は推定で159cm。竹千代の頃はとても活発で、子供の頃から鷹狩りが趣味だったが、書物もたくさん読んだとされる。

徳川家康が、今川義元の人質となっていた際には、臨済寺の太原雪斎から学ぶ機会があった事も大きいと考えられる。林羅山からは孔子の教えである朱子学を学び、徳川幕府の中に取り入れている。また、世界情報や地理学・数学・天文学も、ヨーロッパ人のウィリアム・アダムズ(三浦按針)から聞いて学んだ。そして、幼少時代に人一倍に苦労をした徳川家康は「待つ」ということと「耐え忍ぶ」ことを心得ていた。

徳川家の旗印は「厭離穢土、欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)。意味は、戦乱の世のような乱れた世界を嫌い、平穏な浄土を求める、という事。

幼い頃に苦労したせいか、贅沢を好まず、普段着る物も質素だったと言う。食事も麦飯と魚を好み、野菜の煮付けや納豆をよく食べた。
決して食べ過ぎないように注意していたと言われ、酒も強かったが、飲みすぎないようにしていた。
そして、体調には日頃から気を使っていたので、医薬品に強い興味を持ち、薬も自ら調合していた。

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三河武士

徳川家康は、一時、腹心の本多正信らに裏切られたり、重臣・石川数正が出奔したこともあったが、他の徳川家の家臣は縁故関係もある「譜代の家臣」、すなわち、先祖からずっと家臣と言う忠義者が多く、働き者でもあったことから、三河武士は結束力があった。
この点は、能力ある新参者を重用したのは良かったが、人の心を読めずに命取りとなった織田信長や、成り上がりで譜代の家臣が皆無であった豊臣秀吉と比べても、徳川家康は家臣には恵まれていたと考えられる。
しかし、頑固で自負心が高い家臣らを日頃から統制するのには、かなり慎重さも必要だったようで、徳川家康は、余計な事を言わない様、自然と言葉数が少なくなったと推察でき、家臣たちから「なにを考えているかわからない」、「言葉数が非常に少ない」といった表現を多く用いられている。

伊賀忍者を活用した情報収集

徳川家康も忍者を多用したが、特に、伊賀越えで伊賀忍法に接した際には、忍者の大切さを思い知ったと考えられる。
その後、藤堂高虎を情報収集役の責任者にして、以後は情報収集網を構築した。特に伊賀上野城は、藤堂高虎の築いた見事なほどの高い石垣が備えられている。
そして、服部半蔵らに大阪城の様子を探らるなど、情報を的確に得て、慎重に行動し、天下を取ったのだ。

関白ではなく征夷大将軍

関ヶ原の合戦にて石田三成らを破った徳川家康は、水戸、紀伊、尾張などの防衛上の要衝は全て徳川家の直轄地とし、徳川家とあまり親しくなかった大名は「外様大名」として江戸から遠い領地を与えた。
そして、62歳の時である、1603年2月12日に征夷大将軍となった。
その日は寒くて、時折り小雨が降る冷たい朝であったが、朝8時ころからは晴れてきて、将軍の誕生を祝福するかのように太陽が輝き始めたと伝わる。
豊臣秀吉が「関白」であったのに対して、徳川家康は「征夷大将軍」になった。
関白は、天皇を補佐する朝廷の首座職であったのに対して、徳川家康は武家の首座であり、天皇の軍隊となる「幕府」を統括する征夷大将軍に就任したことで、多くの大名は大阪城よりも、徳川家康の江戸城に年賀の拝礼に訪れる者が増えた。
そして不穏な動きが懸念される西国大名(外様大名)に時間を与えないため、手始めに江戸城の天下普請を命じ、将軍職を徳川秀忠に譲ったあと大御所となっても、駿府城や駿府城下町の建設も外様大名に命じた。
織田信長、豊臣秀吉の統治能力をまじかで見てきたからこそ、徳川家康は、完成度の高い「幕府」をもうけることができたのだ。

将軍職を世襲に

征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた徳川家康であったが、その頃はまだ、天下は回りものだと多くの大名は考えており、豊臣家の淀殿自身も、次は成長した豊臣秀頼に天下が与えられると期待していたのだ。
しかし、1605年4月7日、僅か2年で将軍職を辞任し、新しく徳川秀忠に将軍職就任を朝廷に奏請。4月16日に朝廷より宣旨が下った事で、徳川家が将軍職を世襲することを世に知らしめた。
これで、豊臣の天下が確実になくなり、淀殿ら豊臣家と徳川家の関係は悪化したのだ。
 
豊臣秀吉は自分の出世に執着する余り、後継者育成が疎かになった。晩年にようやく誕生した豊臣秀頼を後継の天下人にするため、豊臣秀吉は徳川家康や前田利家に頼むと言う手段に出た。
下剋上の戦国時代に、何かを頼んでも反故にされるのは当たり前のような時代であり、当然通用しなかったが、織田信長の失敗と、豊臣秀吉の失敗が非常に参考になったのは間違いない。
そして、徳川家康は天下がいつまでも続くように新しい秩序を組み立て、あらゆる問題の種を解決してからこの世を去ったのだ。

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