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皆様、こんにちは。
僕は高杉晋作です。
さて、今日は、長州藩の「大奥」に関する話を少ししたいと思います。
大奥と言うのは語弊がありますね。
「奥」と訂正させて頂きます。
奥とはすなわち、藩主・毛利敬親さまの奥方である毛利都美子様など、ご家族が寝起きする城内の場所を差します。
その長州藩毛利家の「奥」を取り締まるのは、園山(そのやま)殿と言う老女でした。
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もちろん、参勤交代制度で藩主の妻子は江戸藩邸に住みましたので、通常は江戸で奥を仕切ってました。
そして、和宮様が将軍・徳川家茂公へ御降家された1862年の8月22日に、参勤交代が廃止されたため、江戸にいた都美姫(毛利都美子様)などは長州に入りました。
付き従った奥女中らもこの時、初めて萩に入った者が多かったようです。
ただ、この時、長州に移住して頂くのには、毛利都美子様もかなり抵抗を示したとも言います。
だってそうですよね。
日本で一番なんでも揃っており、娯楽も楽しめ、不自由なく暮らしていた江戸の街から、田舎の長州に喜んで行きたがる女子はおりません。
しかしなが、何か長州藩が事を起こそうとした時に、万が一、幕府の人質にでもなったら大変ですからね、半ば強制的に萩に出向いて頂きました。
1865年、嫡男・毛利元昭様が誕生すると、久坂玄瑞が亡くなったあと未亡人となっていた、久坂文(杉文)が養育係となっています。
推挙したのは、この園山殿と言う話もあります。
毛利安子様が毛利元徳殿の子・毛利元昭様を産んだ時代にも、毛利家の奥を取り仕切っていたので、この時、杉文と園山様とは、当然面識があったものと推測致します。
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2015年 6月 03日トラックバック:毛利家奥の国島・鞠・潮とは – 大河ドラマ情報
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2016年 9月 08日
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