上杉謙信と武田信玄 ナゼ戦国最強なのか?~前半 他大名との共通編~

戦国最強





あなたが思う戦国最強の大名はどの家でしょうか?

三好家、織田家、豊臣家、徳川家、上杉家、武田家、今川家、北条家、毛利家、大友家、竜造寺家、島津家、北条家、伊達家、長曾我部家、大内家、尼子家など、
大くて有名な勢力を思い浮かべるとこのような感じでしょうか。

当然、同じ戦国時代でも年代によって勢力は違ってきますよね。

戦国最強は島津だろと思った、そこの貴方。あれは最強というより異常なので、今回は座っていて下さい。また別の機会に島津はやります。

今回は戦国前期~中期に最強の名をほしいままにした上杉謙信と武田信玄が率いる軍団の強さの秘密を2回に分けて紹介できればと思います。



1回目の今回は、他大名と比較する為に、あえて他大名との共通点を探っていきたいと思います。ある程度、共通点が見えてきましたら、
2回目に違う点を洗い出していこうかと思います。
暫くお付き合い頂けますと幸いです。
(決して、「やべ、あまりにも文章が長くなりすぎたから2回に分けてやれ」って事じゃないんだからね!…さて、戯言はこれくらいに致しまして、)

この2人は当然後世もさることながら、同時代の人々からも最強と認識されていたようです。
ぶっちゃけ、田舎大名のくせになぜこの2人は強かったのでしょうか?

強大な軍備を維持するには、古今東西変わらず、強固な経済基盤が必要であり、謙信と信玄はやり方は違えど、それを保持し続けました。

武田信玄は甲斐国が本国ですが、積極的に治水事業を推し進め、新田開発を実施。
さらに、金山の開発を進め、日本で初めての金貨、甲州金(碁石金)を鋳造し、これを開発事業や軍事費、また外交資金などに使用しました。
また鉱山運用のシステムは、武田家が直接支配する形では無く、金堀衆と呼ばれる採掘専門家の権益を保証する形で利益を得ていたと考えられているそうです。



上杉謙信は越後国が本国ですが、その財源は青苧税であったようです。
戦国時代はまだ木綿が流通していなかった為、青苧を使った衣服が重宝されていました。
当時の越後は青苧の一大生産地であり、その上質な繊維で編まれた越後上布を商人達は日本海ルートで全国に流通を広め莫大な利益を得ていました。
謙信はそれに着目し、青苧商人や港に出入りする商船に税金をかけて上杉家の財源としたようです。
 謙信の死後、春日山城には2万7140両(現代換算で約35億円ほど)の蓄えがあったとされています。  

余談ですが、謙信の晩年期の北陸地域は織田との係争地帯であり  この青苧財源を考えると、晩年の越中や能登の領土化などは青苧の流通ルートの安全化にあったのではと考える事も可能ですね。

ちなみに、新潟(越後国)には佐渡金山がありますが、開発されたのは江戸前期からであり、
謙信の時代、佐渡国は本間氏が支配していた為、謙信は金山開発はしていません。

謙信と信玄の経済基盤が強固であり、その経済力で、強大な軍備を保有、領土の維持を可能とし、更に他国侵攻を行い他国に比べて有利な状況を作り出していった事が見えてきますね。

しかし、このような事は、財源が違うだけで、勢力のある他大名ならどの家も同じような事をやっています。

では、軍事編成はどうだったのでしょうか。

結論を言いますと、謙信、信玄、共に当時の基本的な軍団編成であり、他大名と比べて、それほど、大きな違いはありません。

当時の軍事編成は簡単に、旗本、鉄砲組、長柄組、騎馬隊、弓隊、などが戦闘部隊としてあり、後方部隊として、軍監・目付、太鼓・貝持ち、小荷駄隊などがあります。

謙信も信玄もこれを踏襲しており、石高と年代によってそれぞれ部隊の人員率が前後しています。

武田信玄などは20年ほど前は戦国最強武田騎馬軍団などともいわれて、さもモンゴル兵宜しく全軍が騎馬軍のようなイメージを持たれていましたが、研究によって、そうでは無いことはもはや有名です。

ある記録によれば謙信の軍団では長柄が全体の67%を占めていて槍が主体の軍事編成だった説もありますが、安易に決めつけるのも危険と思われます。
記録が残っている戦いではその編成でしたが、  (当然東国大名なので、鉄砲の比率は少なく槍の割合が多くなるのはある程度必然だとは思いますが)  
では他の戦いではどうだったのでしょうか?謙信はその生涯で約70回ほど戦争行為をしており、その全てにおいてその編成だったかについては疑問に思えます。

なにより、戦国時代の軍事動員は豊臣政権が太閤検地を実施するまでは、非常にアバウトなものでした。
川角太閤記に記載されている内容で明智光秀が本能寺を襲撃した際の人数が1万3000という事になっていますが、
これは光秀が亀山城下に集まった人数を見てどれくらい集まったのか、重臣の斎藤利三に訊ねてみた所、「1万と3000程はいるでしょう」と答えたのでそうなったとされています。

あの、細かく軍法を定めたとされる明智光秀でさえ、こうなのですから、当時の動員がいかに適当だったのかが見て取れます。

やはり、謙信と信玄の強さを論じる際は、軍事編成面では年代と石高によって多少の編成比率の違いこそあれ、
基本的には他大名とあまり変わらない編成(戦国最強武田騎馬軍団のような特殊な編成では無い)と考えてみるのが(決定打になりえないと言う点において)安全かもしれません。



では、経済面も軍事編成面も有力な勢力の他大名とさほど変わらずとすれば、戦国最強とまで言われた、2人の強さは何なのでしょうか?
次回はその他大名との違い、謙信と信玄の特出する強さについて探っていけたらと思います。

(寄稿)角原勇輝

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