西郷どんの出演者キャスト速報【NHK大河ドラマ2018年】随時更新


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2018年のNHK大河ドラマは「西郷どん」(せごどん)に内定→決定致しました。

気になる幕末の英雄である「西郷隆盛」(さいごう-たかもり)との主役を演じる役者さんが、鈴木亮平さんに決定したと2016年10月31日報道されました。

しかし、2016年9月8日のNHK会長の定例記者会見では、ドラマの名前が「西郷どん」と言う事と、原作が林真理子さん、脚本は中園ミホさんです。
放送予定の2018年は、明治維新からちょうど150年の節目に当たります。
撮影開始(クランクイン)は、2017年7月頃になるようです。
ロケ地情報などもわかれば、お伝えして参ります。



西郷隆盛(西郷吉之助)を良くご存じない方は、まずは下記をご参照願えますと幸いです。

西郷隆盛 【西郷吉之助】詳細版~薩摩藩が排出した幕末の英雄

なお、西郷隆盛の魅力などについては下記にてまとめてあります。

西郷隆盛の魅力や人気の秘密は?なぜみんなから慕われるのか?

西郷どんの出演者・キャスト一覧リスト

※敬称略・順不同

西郷隆盛(西郷吉之助)(さいごう-たかもり)–鈴木亮平
大久保一蔵(おおくぼ-いちぞう)/大久保利通(おおくぼ-としみち)–瑛太

岩山糸(いわやま-いと)–黒木華
西郷琴(さいごう-こと)–桜庭ななみ
西郷吉二郎(さいごう-きちじろう)–渡部豪太
熊吉(くまきち)(永田熊吉)–塚地武雅
西郷吉兵衛(さいごう・きちべえ)–風間杜夫
西郷従道(西郷信吾)–錦戸亮
西郷満佐子(さいごう-まさこ)–松坂慶子
西郷龍右衛門(西郷隆充)–大村崑
西郷きみ–水野久美

大久保次右衛門(おおくぼ-じえもん)–平田満
大久保満寿(おおくぼ-ます)–ミムラ
大久保福-藤真利子

於一(おいち)/ 篤姫(あつひめ)–北川景子
大山格之助(おおやま-かくのすけ)/ 大山綱良(つなよし)–北村有起哉
有村俊斎(ありむら-しゅんさい)/ 海江田信義(かいえだ-のぶよし)–高橋光臣
村田新八(むらた-しんぱち)–堀井新太
有馬新七–増田修一朗
赤山靭負(あかやま-ゆきえ)–沢村一樹
桂久武(かつら-ひさたけ)–井戸田潤
幾島(いくしま)–斉藤由貴(出演辞退)→南野陽子
島津斉興(しまづ-なりおき)–鹿賀丈史
由羅(ゆら)–小柳ルミ子

島津久光(しまづ-ひさみつ)–青木崇高
島津斉彬(しまづ-なりあきら)–渡辺謙
島津斉彬の側室・喜久(きく)–戸田菜穂
島津斉彬の側近・山田為久(やまだ-ためひさ)–徳井優

愛加那(あいかな)–二階堂ふみ

阿部正弘(あべ-まさひろ)–藤木直人
月照(げっしょう)–尾上菊之助
徳川家定(とくがわ-いえさだ)–又吉直樹
調所広郷(ずしょ-ひろさと)–竜雷太
井伊直弼(いい-なおすけ)–佐野史郎
徳川斉昭(とくがわ-なりあき)–伊武雅刀

ふき–高梨臨
タマ–田中道子
※宿屋・磯田屋で働く娘で、ふきの同僚。



原作–林真理子
脚本–中園ミホ
音楽–富貴晴美
語り–市原悦子
制作統括–櫻井賢、櫻井壮一
プロデューサー–小西千栄子、藤原敬久
演出–野田雄介、盆子原誠、岡田健
題字&ポスター&タイトルバック–L.S.W.F( LAND SKY WATER FILM)(青木肇、中村豪、土屋尚幸、田村陽介、大島賢一、小泉遼)

※新たな出演者さんに関しては、判明次第、随時追記して参ります。

林真理子さんの「西郷どん」

原作となる「西郷どん」(せごどん)を執筆している林真理子さんのこの「本」は、下記の「本の旅人」(角川書店のPR誌)にて、2016年2月号から連載を開始している、連載中の原作となります。


本の旅人

その後、文庫本としての発売が決定いたしました。


西郷どん! 上製版

西郷吉兵衛と西郷満佐子とは~西郷隆盛の父と母と使用人の熊吉も
御年寄「幾島」とは~篤姫に仕えて大奥に入った薩摩の女性
側室「喜久」は島津斉彬の寵愛を受けていた伊集院須磨か?
西郷琴とは~西郷隆盛の妹で西郷家の長女である西郷コト・市来琴の生涯
お由羅騒動とお由羅の方を簡単にわかりやすく解説
愛加那と西郷菊次郎・菊草~西郷隆盛が奄美大島で愛した家族のその後
奄美大島にある西郷隆盛の史跡~西郷松と西郷南洲謫居跡への行き方
岩山糸~西郷糸子とは 西郷隆盛3番目の妻の生涯~武町屋敷跡と南洲野屋敷跡
東京にある西郷隆盛と勝海舟の関連史跡10選~便利な行き方や地図も

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コメント

  1.  薩摩藩士たちは江戸時代中期に幕命で起きた宝暦治水事件のことを根に持っており、薩摩が幕末に倒幕を行った根底にはこの事件があります。江戸時代中期、島津の家臣たちは、幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の分流工事を行う宝暦治水事業の過程で、工事中に薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した事件があった。当時、既に66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754(宝暦4)年1月21日幕府へ送った。平田は、その後も大阪に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し、同年閏2月9日美濃に入った。1754(宝暦4)年4月14日、薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮をとっていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後、合わせて61名が自害を図ったが、平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから、自害である旨は届けなかった。工事完了後、借金を平田の個人名義で行った薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。独立国の様であった薩摩の言葉は特殊なため、現地の者に言葉が通じないなどの苦労があった。悲しい事件でした。この事件から薩摩藩士は徳川幕府に対して恨みを持つようになり、いつか幕府に一矢報いてやると思っていた薩摩藩士は幕末に倒幕運動に走るようになった。明治維新の大義だけではなく、こうしたことが心理の根底にはありました。

  2.  江戸時代に山中家から分家した石脇(こくぶ)家が明治になってから濵﨑姓に改姓しました。濵﨑家の祖先は、江戸自体、小松帯刀の所領・日置の飛び地・知覧村塩屋の総代をしていました。そのころ、島津藩は多額の借金を抱えており、皆経済的に苦しかった。知覧村塩屋の者たちも貧しさにあえいでいた。そこで、濵﨑家の祖先は蚕をはじめ、皆が食べていけるようにしました。そのため、濵﨑家の祖先は知覧村塩屋で尊敬を集める名門となりました。濵﨑家の関係者になることは誇りとなっていました。濵﨑家は、大船団を率い、底引き網を行った。そして、魚の油を製造していました。豪農であるとともに、役人も兼務していました。30人ほどの者を雇っていました。濵﨑休太郎が一代で財を成した。女遊びで散在しました。休太郎の子・休次郎、休助、良吉(、ニワは夭折)は遺産相続をめぐって争った。それぞれ均等に財産を分けることで解決しました。休次郎は、女遊びで散財したため、長女・シゲは、岡山に出稼ぎに出て、蓄財し、ある程度、休次郎の土地を取り戻した。休次郎の嫁・アサギクのすぐ下妹・エツの孫・上釜孝は枕崎市市長となった。アサギクの一番下の妹・ケサの孫・平木場太は知覧町助役となった。シゲの一番下の妹・トメの夫・安田博英の長兄の孫・健三、および次兄の長男・英造はアメリカ合衆国のロサンゼルス州に移住した。シゲのすぐ下の妹・スミの子・信幸ら兄弟姉妹はカナダに移住した。なお、祖父・濵﨑(旧姓難波)秀幸の長兄・難波常幸はカナダに移住した。その娘・幸子は英国系アメリカ人と結婚した。秀幸とシゲの子供たちも遺産相続でもめています。
     濵﨑(旧姓難波)秀幸は難波(旧姓眞江田)周八の次男です。周八は眞江田菊蔵の次男です。眞江田菊蔵は、眞田幸村の五男・瓢左衛門の子孫ですが、幕末に名字帯刀を許されました。周八の妻・伊勢は、大網元で士族である荒武直眞の長女・長子です。荒武一族は薩摩半島沿岸漁業の大網元として巾着網船団を引き連れて、唯一の漁獲高を誇っていました。眞江田周八は、「難波」(島津家の重臣、本家のみが難波姓を名乗り、分家は名字を変える決まりになっていたことから、難波姓を売ったものと思われます)という武家の株を買い、難波姓に改姓し、明治になってから池田清元衆議院議員邸に書生として下宿していたが、出世して30歳代で造士館塾頭(鹿児島大学学長)になりました。これを引退してから、栗が窪小学校の主席教員(校長)をしていたが、眞田幸村の子孫ということに対して僻みを持つ周辺住民に虐められた挙句、放火されました。その結果、いろいろ残っていた眞田幸村の遺品も焼けてしまいました。難波周八は、眞田幸村から伝えられてきた「おねぐい」(おそらく豊臣秀頼から賜ったという意味だと思う)の鞍、親鸞上人直筆の掛け軸等を家宝として持っていた。「おねぐい」の鞍は、秀頼から賜ったものであるが、鹿籠(枕崎市のこと)どん(枕崎市の殿様、島津尚久の末裔)と酒の飲み比べをして負けたため、この鹿籠どんに取られてしまった。このため、周八は、上京をあきらめてしまった。晩年は、自分で建てた小屋に書物を運び込んで、読書三昧をして暮らしました。

  3.  枕崎市長を3期12年務めた上釜孝の甥は枕崎市選出の鹿児島県会議員をしていた。孝の兄弟・敏雄はみよ(スミ大叔母の子・登志子の従姉)と結婚し、その子・俊一は防衛大学3期卒ジェットパイロット、航空自衛隊飛行隊長・一等空佐で、俊二は熊本大学医学部卒、鹿児島市民病院外科部長であった。安田博英の三兄・幸吉の子・幸二は、九州大学卒で、参議院事務局一課長のときに死亡し、登志子の夫・敏雄が鹿児島県枕崎市で行われた葬式で挨拶した。敏雄は鹿児島県美容環境衛生同業組合理事長をしている。トメ大叔母は上釜孝の面倒をよく見ていた。上釜孝が酒を飲んでよく濵﨑美容室に来たが、「そんなところにおらず、奥に入れ」と奥の部屋に呼び込んだ。スミ大叔母の子供たちが日本に来たときは、米軍基地で働いている時に英語を話せるようにした昌彦叔父が通訳した。母の再従姉・中村保は鹿児島県剣道連盟理事長をしていた。その子・保嗣は、航空自衛隊を退職後、枕崎空港の所長をしていたことがある。
     難波周八の弟・眞江田三左衛門は、小さい頃から台湾で育ったため、眞田幸村について何も知らなかった。周八は台湾から三左衛門を呼び戻し、頴娃村役場に紹介した。三左衛門は村会議員と水成川区長を兼務していた。一度は村会議長をしたこともある。周八の妻・伊勢曾祖母は、網元で士族の荒武家の長子・長女である。荒武家は荒武秋男が継いだ。雪丸の田原武雄は陸軍第11期生で、戦争中は陸軍中佐で、戦後は鹿児島県農業経済連副会長、参議院議員をしていた。戦後間もない頃、父が知覧町塩屋の青年団長していた時、選挙の際、「同族だからよろしく」と言った。この人からも眞田幸村についていろいろ聞いた。その甥・鉄可は鹿児島県議会議員をしている。父は、難波周八曾祖父の初孫であることから、眞田幸村についてもいろいろ聞いた。山川町の秀頼の子孫・為義から、父は、従妹の登志子と共に、豊臣秀頼と眞田幸村薩摩落ちに関する話を聞いた。曾祖父・難波周八は、池田清元衆議院議員邸で下宿していた頃、この池田清から眞田幸村が薩摩落ちした時のことについていろいろ聞いた。

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