西郷どんの出演者・登場人物速報【NHK大河ドラマ2018年】


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恐れ入ります。
記事は「西郷どん出演者一覧」に統合致しました。

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コメント

  1.  薩摩藩士たちは江戸時代中期に幕命で起きた宝暦治水事件のことを根に持っており、薩摩が幕末に倒幕を行った根底にはこの事件があります。江戸時代中期、島津の家臣たちは、幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の分流工事を行う宝暦治水事業の過程で、工事中に薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した事件があった。当時、既に66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754(宝暦4)年1月21日幕府へ送った。平田は、その後も大阪に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し、同年閏2月9日美濃に入った。1754(宝暦4)年4月14日、薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮をとっていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後、合わせて61名が自害を図ったが、平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから、自害である旨は届けなかった。工事完了後、借金を平田の個人名義で行った薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。独立国の様であった薩摩の言葉は特殊なため、現地の者に言葉が通じないなどの苦労があった。悲しい事件でした。この事件から薩摩藩士は徳川幕府に対して恨みを持つようになり、いつか幕府に一矢報いてやると思っていた薩摩藩士は幕末に倒幕運動に走るようになった。明治維新の大義だけではなく、こうしたことが心理の根底にはありました。

  2.  江戸時代に山中家から分家した石脇(こくぶ)家が明治になってから濵﨑姓に改姓しました。濵﨑家の祖先は、江戸自体、小松帯刀の所領・日置の飛び地・知覧村塩屋の総代をしていました。そのころ、島津藩は多額の借金を抱えており、皆経済的に苦しかった。知覧村塩屋の者たちも貧しさにあえいでいた。そこで、濵﨑家の祖先は蚕をはじめ、皆が食べていけるようにしました。そのため、濵﨑家の祖先は知覧村塩屋で尊敬を集める名門となりました。濵﨑家の関係者になることは誇りとなっていました。濵﨑家は、大船団を率い、底引き網を行った。そして、魚の油を製造していました。豪農であるとともに、役人も兼務していました。30人ほどの者を雇っていました。濵﨑休太郎が一代で財を成した。女遊びで散在しました。休太郎の子・休次郎、休助、良吉(、ニワは夭折)は遺産相続をめぐって争った。それぞれ均等に財産を分けることで解決しました。休次郎は、女遊びで散財したため、長女・シゲは、岡山に出稼ぎに出て、蓄財し、ある程度、休次郎の土地を取り戻した。休次郎の嫁・アサギクのすぐ下妹・エツの孫・上釜孝は枕崎市市長となった。アサギクの一番下の妹・ケサの孫・平木場太は知覧町助役となった。シゲの一番下の妹・トメの夫・安田博英の長兄の孫・健三、および次兄の長男・英造はアメリカ合衆国のロサンゼルス州に移住した。シゲのすぐ下の妹・スミの子・信幸ら兄弟姉妹はカナダに移住した。なお、祖父・濵﨑(旧姓難波)秀幸の長兄・難波常幸はカナダに移住した。その娘・幸子は英国系アメリカ人と結婚した。秀幸とシゲの子供たちも遺産相続でもめています。
     濵﨑(旧姓難波)秀幸は難波(旧姓眞江田)周八の次男です。周八は眞江田菊蔵の次男です。眞江田菊蔵は、眞田幸村の五男・瓢左衛門の子孫ですが、幕末に名字帯刀を許されました。周八の妻・伊勢は、大網元で士族である荒武直眞の長女・長子です。荒武一族は薩摩半島沿岸漁業の大網元として巾着網船団を引き連れて、唯一の漁獲高を誇っていました。眞江田周八は、「難波」(島津家の重臣、本家のみが難波姓を名乗り、分家は名字を変える決まりになっていたことから、難波姓を売ったものと思われます)という武家の株を買い、難波姓に改姓し、明治になってから池田清元衆議院議員邸に書生として下宿していたが、出世して30歳代で造士館塾頭(鹿児島大学学長)になりました。これを引退してから、栗が窪小学校の主席教員(校長)をしていたが、眞田幸村の子孫ということに対して僻みを持つ周辺住民に虐められた挙句、放火されました。その結果、いろいろ残っていた眞田幸村の遺品も焼けてしまいました。難波周八は、眞田幸村から伝えられてきた「おねぐい」(おそらく豊臣秀頼から賜ったという意味だと思う)の鞍、親鸞上人直筆の掛け軸等を家宝として持っていた。「おねぐい」の鞍は、秀頼から賜ったものであるが、鹿籠(枕崎市のこと)どん(枕崎市の殿様、島津尚久の末裔)と酒の飲み比べをして負けたため、この鹿籠どんに取られてしまった。このため、周八は、上京をあきらめてしまった。晩年は、自分で建てた小屋に書物を運び込んで、読書三昧をして暮らしました。

  3.  枕崎市長を3期12年務めた上釜孝の甥は枕崎市選出の鹿児島県会議員をしていた。孝の兄弟・敏雄はみよ(スミ大叔母の子・登志子の従姉)と結婚し、その子・俊一は防衛大学3期卒ジェットパイロット、航空自衛隊飛行隊長・一等空佐で、俊二は熊本大学医学部卒、鹿児島市民病院外科部長であった。安田博英の三兄・幸吉の子・幸二は、九州大学卒で、参議院事務局一課長のときに死亡し、登志子の夫・敏雄が鹿児島県枕崎市で行われた葬式で挨拶した。敏雄は鹿児島県美容環境衛生同業組合理事長をしている。トメ大叔母は上釜孝の面倒をよく見ていた。上釜孝が酒を飲んでよく濵﨑美容室に来たが、「そんなところにおらず、奥に入れ」と奥の部屋に呼び込んだ。スミ大叔母の子供たちが日本に来たときは、米軍基地で働いている時に英語を話せるようにした昌彦叔父が通訳した。母の再従姉・中村保は鹿児島県剣道連盟理事長をしていた。その子・保嗣は、航空自衛隊を退職後、枕崎空港の所長をしていたことがある。
     難波周八の弟・眞江田三左衛門は、小さい頃から台湾で育ったため、眞田幸村について何も知らなかった。周八は台湾から三左衛門を呼び戻し、頴娃村役場に紹介した。三左衛門は村会議員と水成川区長を兼務していた。一度は村会議長をしたこともある。周八の妻・伊勢曾祖母は、網元で士族の荒武家の長子・長女である。荒武家は荒武秋男が継いだ。雪丸の田原武雄は陸軍第11期生で、戦争中は陸軍中佐で、戦後は鹿児島県農業経済連副会長、参議院議員をしていた。戦後間もない頃、父が知覧町塩屋の青年団長していた時、選挙の際、「同族だからよろしく」と言った。この人からも眞田幸村についていろいろ聞いた。その甥・鉄可は鹿児島県議会議員をしている。父は、難波周八曾祖父の初孫であることから、眞田幸村についてもいろいろ聞いた。山川町の秀頼の子孫・為義から、父は、従妹の登志子と共に、豊臣秀頼と眞田幸村薩摩落ちに関する話を聞いた。曾祖父・難波周八は、池田清元衆議院議員邸で下宿していた頃、この池田清から眞田幸村が薩摩落ちした時のことについていろいろ聞いた。

  4.  甲斐源氏小笠原氏は甲斐源氏武田氏から分家したが、濵﨑家の先祖・山中氏はその小笠原氏から分家した。武田氏の分家・小笠原氏は信濃の守護となったが、武田氏に滅ぼされた。しかし、その小笠原氏も江戸時代に徳川幕府の譜代大名となりました。つまり、武田氏の分家・小笠原氏の子孫は島津薩摩藩にも徳川幕府にもいるということになります。
     濵﨑家の家紋は蔦紋ですが、松平家も徳川宗家に遠慮して蔦紋を使用しています。
     妻時の分家・佐多氏の佐多内衆(佐多氏の家臣)だった岩脇家の一つ・岩脇徳右ヱ門・岩脇半左ヱ門親子が西別府村(知覧町塩屋)の総代(東日本では名主、西日本では庄屋、薩摩藩では総代という)となり、明治になってから濵﨑と改姓した。江戸自体末期の指宿の豪商・濵﨑太平次にあやかったようです。高祖・濵﨑休太郎は事業で成功したが、曾祖父・濵﨑休次郎は女遊びで散財した。祖母・濵﨑シゲが岡山で働いた金を貯めてほとんど土地を取り返した。
     江戸時代、もともとは武士だったものが名主になるケースは結構あったことをBS-TBS「高島礼子が家宝探索!蔵の中には何かがある」の中で言っていました。私の友人は「食べていけなかったのだろう」と言っている。食べていけない士族が西南の役に参加した。一方で、士族でありながら豪商だったり、網元だったり、庄屋だったりした者は結構裕福で、西南の役には参加せず、彼らを冷ややかな目で見ていた。薩摩藩は他藩が兵農分離したのに対して兵農分離していなかったから、このようなことが結構あった。サラリーマンだった城下士から士族になった者は年金しか収入がなく、貧乏だった。むしろ、郷士の方が裕福だったようだ。
     郷士は東京に行くと警察官に登用されたことから、その子孫は結構います。

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