島津斉彬とは~西郷隆盛・大久保利通、そして島津久光と薩摩藩での関係をわかりやすく


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島津斉彬(しまづ-なりあきら)は、第10代の薩摩藩主・島津斉興の長男として1809年3月14日に江戸・薩摩藩邸にて生まれた。

母は鳥取藩主・池田治道の娘・弥姫(いよひめ)で、島津家に嫁ぐと周子(かねこ)と改名している。
この弥姫(周子)は、徳川家康、伊達政宗織田信長の血を引いており、嫁入り道具としては「四書五経」「左伝」「史記」「漢箱」を大量に持ち込んだため、薩摩藩の奥女中や家臣らが驚愕したと伝わる。

子育ては乳母に任せず、自ら母乳を与えて島津斉彬も育てあげて、得意である左伝、史記、四書五経を自ら教授したと言う。

なお、父・島津斉興(しまづ-なりおき)は藩主ではあったが、高齢の島津重豪(8代藩主)が藩政改革などの実権を引き続き握っていた。


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しかし「蘭癖大名」と呼ばれた、島津重豪(しまづ-しげひで)から島津斉彬は貴重な蘭学などの教育を受ける。
幼少の頃から島津重豪と島津斉彬は一緒に同じ建物で生活し、共に入浴したほどであったと言う。
その結果、ひいおじいちゃんの島津重豪から、島津斉彬はその才能を高く評価されるに至り、4歳の時には既に跡取りと指名された。
なお、母・弥姫(周子)は、皆から惜しまれつつ、1824年に享年34で死去している。
その後、島津斉彬は、1826年に一橋徳川家当主・徳川斉敦の娘である栄樹院を正室に迎えている。

一方、西郷隆盛(西郷吉之助)は、1828年12月7日に薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれた。
下から2番目の身分となる下級藩士の家柄であり、生活は苦しかったが、良妻として知られる母・椎原政佐(しいはら-まさ)も献身的に育てた。

1833年に、島津重豪が89歳で死去すると、島津斉彬の父・島津斉興はようやく実権を握り、藩政改革の重鎮・調所広郷を重用している。

少年に成長した西郷隆盛(西郷吉之助)は、1839年、他の郷中と友人が喧嘩したのを仲裁に入ったが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕を斬った。
一命をとりとめたもの、西郷吉之助は刀を握れなくなり、学問で身を立てようと志す。
そして、1841年に元服すると、下加治屋町(したかじやまち)郷中の二才組に入った。

二才組(にせこ)と言うのは、村内の若い男子(15~17歳くらい)が所属する若者組で、1847年には二才頭となっている。

さて、江戸時代後半には、嫡子が元服すると、父である藩主は早々に家督を譲って隠居するのが習慣であった。
しかし、500万両(5000億円)と言う莫大な借金をしてまで政策を断行した、ひいおじいちゃん島津重豪から跡を託されていた島津斉彬が、藩主となるとまた財政が苦しくなるのではと言う憶測もあった。
そのため、家老・調所広郷らの抵抗もあり、島津斉彬は40歳を過ぎても薩摩藩世子と言う立場のままで、なかなか家督を譲られずにいた。

そこに、今度は調所広郷や島津斉興の側室・お由羅の方らが、お由羅の子で、島津斉彬の異母弟・島津久光を後継者にしようと画策する。
また、島津斉彬は長男・島津菊三郎を早くに亡くし、1945年には側室・横瀬克己の娘との間に次男・島津寛之助(しまづ-ひろのすけ)を設けるが、その待望の跡取りも1848年に4歳の若年で夭折している。
当時は、お由羅が毒を持ったのではとも噂され、さらには、島津寛之助の病室の床下から呪詛人形が発見されたとも伝わるなどした。

そのため、島津斉彬に近い家臣らは、島津久光とお由羅を暗殺しようと計画するが、情報が漏れてしまう。
1850年、首謀者13名が切腹、また連座した約50名が遠島又は謹慎処分となったが、これを恥じて自害した者も多い。(お由羅騒動、高崎崩れ)

例えば、大久保利通(大久保正助)の大久保家でも父・大久保利世とともに連座して謹慎処分となり、収入が無いなか約3年間苦しい生活を強いられている。
また、西郷隆盛の父・西郷吉兵衛は、切腹を命じられた赤山靭負の御用人(家来)であり、介錯をした。
西郷吉兵衛は血染めとなった赤山靭負の肌着を子の西郷隆盛に与えてその最期を話すと、西郷隆盛は島津斉彬の相続を願うようになったと言う。

ちなみに騒動の首謀者とされるお由羅の方には大きな処分はなく、弥姫(周子)が生きていたら、お由羅騒動は起きなかったのではとも言われている。

島津斉彬は味方だった家臣の多くを失い、島津久光が有利な立場となったが、島津斉彬の能力を非常に高く評価していた幕府老中・阿部正弘、伊予・宇和島藩主・伊達宗城、越前・福井藩主・松平慶永らが事態収拾に努める。
そして、1851年2月に父・島津斉興が心ならずも42年務めた藩主の座を降りて隠居すると、島津斉彬が第11代藩主に就任した。
下記は、鹿児島・照國神社にある島津斉彬の像。

島津斉彬の像

1582年、西郷吉之助(西郷隆盛)は、伊集院兼寛の姉・須賀(敏子)と結婚するが、7月に祖父・西郷遊山、9月に父・西郷吉兵衛、11月に母・マサと相次いで死去し、1人で妻や兄弟を支えなければならなくなった。

そんな折り、1852年12月にはペリー提督が浦賀に来航し、日本では攘夷問題が起き始める。

島津斉彬は藩主に就任すると直ちに「集成館」と言う事業を推進させている。

集成館

集成館(しゅうせいかん)とは、アジア初の近代洋式工場群のことで、反射炉、溶鉱炉、洋式造船を建てると、地雷、水雷、ガラス、ガス灯などを製造し、富国強兵・殖産興業に取り組んだ。

集成館・反射炉跡

そして、1851年7月には、アメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)から造船法などの提供を受け、1854年には洋式帆船「いろは丸」を就航させている。
また、西洋式軍艦「昇平丸」を建造すると、江戸幕府に献上した。
更には、蒸気機関の国産製造を行い日本最初の国産蒸気船「雲行丸」も建造。

島津斉彬は、黒船来航以来の難局を打開するため、公武合体・武備開国を主張し、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。

1853年5月、島津斉彬の政権になったことで、大久保利通は謹慎を解かれ、のち御蔵役に就任。

1854年、西郷隆盛は、藩に提出した意見書が認められ、島津斉彬の江戸参勤に同行した。
4月には「御庭方役」となり、常に島津斉彬の側で仕え、藤田東湖からも国事について教えを受けている。
しかし、鹿児島の西郷家は貧困にあえいでおり、見かねた妻の実家・伊集院家は、妻・須賀を引き取り、以後、弟の西郷吉二郎が一家の面倒を見た。

島津斉彬は、1853年から今和泉島津家の当主である島津忠剛の長女・篤姫(あつひめ)を養女にして教育しており、1856年、第13代将軍・徳川家定の正室として江戸城に送った。
しかし、第13代将軍・徳川家定が病弱で子ができないことから、将軍継嗣問が発生する

島津斉彬、水戸藩主・徳川慶篤、越前藩主・松平慶永、尾張藩主・徳川慶勝、老中・阿部正弘らは一橋慶喜(徳川慶喜)擁立に動く。(一橋派)

これに対して、井伊直弼を筆頭に、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤、老中・松平忠固、大奥などは、徳川家定の近親であることを重視して紀伊藩主・徳川慶福を推した。(南紀派)

1857年、西郷隆盛と大久保利通は、ともに徒目付となり、精忠組の領袖として活躍するが、その頃、幕府の老中・阿部正弘が過労で死去。
西郷隆盛は島津斉彬の命を受けて京都や各地で暗躍するも、1858年に井伊直弼が大老に就任し、日米修好通商条約が調印される。

また、徳川家定が徳川慶福を後継に決定し、徳川慶福は名を徳川家茂と改め、のち征夷大将軍(第14代)の宣下を受ける。

これらに抗議する為、島津斉彬は藩兵5000を率いて上洛する準備を進めたが、1858年7月6日、将軍・徳川家定が急死(享年35)した2日後、練兵を観覧している際に発病し、7月16日に島津斉彬も死去した。享年50。
死因はコレラとする説が有力だが、毒殺説などもある。
遺言は側近であった山田為正(山田壮右衛門為正)が書き残している。


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島津家では、島津斉彬の弟・島津久光の子である島津忠義が家督を相続し、島津久光が後見人となったが、薩摩藩の実権は島津斉彬の父・島津斉興が再び握った。

勢いを増した井伊直弼は、幕府の政策に反対する尊王攘夷派を静粛する為「安政の大獄」(あんせいのたいごく)を強化し、吉田松陰橋本左内梅田雲浜らが処刑(又は獄死)となる。
また、一橋慶喜、徳川慶篤、徳川慶勝、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂といった藩主らも謹慎又は隠居処分となった。

京都にいた西郷隆盛は、自分を取り立ててくれた島津斉彬の死を知ると「殉死」しようとしたが、勤王僧の月照に説得されて、有馬新七有村俊斎・伊地知正治らと亡き主君の意思を継ぐことを決心する。

しかし、安政の大獄による危険が迫ったため、公卿・近衛忠煕から月照を託され、大坂から船で鹿児島を目指した。
この時、西郷吉之助(西郷隆盛)と月照は、薩摩の三船沖を航行している際に、船から海に飛び込み、身投げしたのは1858年11月16日の未明の事であった。

すぐに平野国臣らが救助したが、月照は水死し、西郷隆盛は運良く蘇生するも、回復には1ヶ月を擁したと言う。
幕府には西郷隆盛も死んだものとして、西郷と月照の墓を見せた。

月照の墓

そして、幕府の目から隠すため、薩摩藩は西郷隆盛を奄美大島に潜居させ、伊地知正治・大久保利通らがあとを託された。

大久保利通(大久保正助)は、新藩主・島津茂久の実父・島津久光に直々の面会を許されると、西郷隆盛の代わり藩政に関与できるようになり、1861年には御小納戸役に抜擢された。
島津斉興が死去すると、島津久光は藩主ではないが藩政の実権を掌握する。
下記は、鹿児島・照國神社にある島津久光の像。

島津久光公之像

そして、一蔵(いちぞう)の名を授けられた大久保正助は、通称を大久保一蔵に改めている。
小納戸(こなんど)役と言う仕事は、常に主君のもとに出仕して、日常の細務に従事する者のことになる。

大久保一蔵(大久保利通)は命を受けて京都で勅命獲得の工作を行うが、公卿・公家へのつてが無く、島津久光に西郷隆盛の復職を願い出た。
そのため、西郷隆盛は鹿児島に戻ったが、島津久光に対して「亡き島津斉彬の時のようにうまくはいかない」と発言した為、島津久光から不興を買っている。

それでも、大久保利通から説得を受けて西郷隆盛は上京を承諾。
しかし、下関での待機命令を無視して、京に上ったことなどから、捕縛された西郷隆盛や村田新八・森山新蔵は鹿児島に戻れれた。

そして、島津久光は公武合体を推進するため、藩兵を率いて上京。
これら島津久光の行動は、亡兄・島津斉彬の遺志を継ぐものであり、この頃はまだ倒幕の意志はなく、薩摩藩士で尊王攘夷を唱え京都滞在中であった有馬新七・真木保臣(真木和泉)らを粛清する寺田屋事件となった。

西郷隆盛は再び遠島処分となり、徳之島へ渡り、村田新八は喜界島、森山新蔵は処分が下る前に船中で自刃、大山巌も謹慎処分となっている。

西郷隆盛は更に沖永良部島へ流罪となり、西郷家の知行・家財は没収され、弟らも謹慎となった。
罪人であった為、島では不自由な牢屋暮らしで、最初は雨風もあたる吹きさらしの家屋であり、体調も崩した。

1862年、薩摩藩は生麦事件でイギリスの民間人4名を殺傷。
1863年、大久保利通は御側役に昇進し、小松帯刀(小松清廉)らと島津久光の側近となるも、1863年7月には薩英戦争となり、薩摩藩は大敗北を喫した。

しかし、1863年8月、八月十八日の政変にて、薩摩藩と会津藩は、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放することに成功した。

なお人材不足と言う事もあり、大久保利通や小松帯刀らの勧めで、島津久光は西郷隆盛を赦免召還することする。
1864年、鹿児島に戻った西郷隆盛であったが、この時、すでに足が弱り立って歩けなかったと言う。

すぐさま軍賦役(軍司令官)に任命された西郷隆盛は京都に赴くが、薩摩藩が佐幕派・攘夷派の双方から非難されているのに驚いた。
島津久光も公武合体運動に挫折し、あとを小松帯刀や西郷隆盛らに託すと、3年間、薩摩から出ていない。

八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩は池田屋事件をきっかけに京都へ出兵。
会津藩主で京都守護職の松平容保らを排除しようと1864年7月、久坂玄瑞来島又兵衛らが御所を目指した。
そのため、西郷隆盛・伊地知正治らは、松平容保、新選組・近藤勇らは御所を守って長州藩と戦い「禁門の変」(蛤御門の変)となった。
なお、この時、西郷隆盛は銃弾を受けて負傷している。

長州藩は敗れて、長州藩主・毛利敬親の追討令が発せられ、長州藩は朝敵となり、第一次長州征伐が発せられる。
西郷隆盛は、勝海舟と面談すると、その意見を取り入れて長州藩には緩和策で臨むことにし、征長総督・徳川慶勝に意見を述べると、長州藩の処遇を任された。
こうして、征長軍参謀として西郷隆盛は出兵するも、長州藩三家老の処分などの妥協案を提示し、戦にせずに決着をつけている。

大久保利通や西郷隆盛は、引き続き朝廷工作を行い江戸幕府に対して強硬な施設を強めていく。

1865年、坂本龍馬を伴って鹿児島に戻ると島津久光に情勢を報告し、第二次長州征伐には参加しないと言う藩論をまとめた。
また、坂本龍馬は薩摩藩の名義で長州藩がイギリスより武器を購入できるように提案している。

こうして、薩摩藩は第二次長州征討に反対して出兵拒否を行い、1866年1月21日には、京都の小松帯刀邸にて、桂小五郎(木戸孝允)が、薩摩側の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛・黒田清隆らと会談。
坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあり、敵対していた長州藩と薩摩藩は「薩長同盟」を結び、長州藩は薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入した。

1866年6月7日、第二次長州征討の火蓋が切られるも、長州藩の新鋭軍艦、高杉晋作奇兵隊などの活躍などもあり、長州藩が有利に戦いを進める。
そんな中、7月20日、将軍・徳川家茂が大阪城にて死去。

のち15代将軍となる徳川慶喜は、小倉城が陥落すると、作戦を中止し、宮島にて勝海舟と長州藩の広沢真臣・井上馨が会談し停戦に合意したが、事実上、幕府軍の敗北であった。


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1867年、大久保利通は雄藩会議開催を小松帯刀や西郷隆盛と計画し、島津久光が上京すると松平春嶽・山内容堂・伊達宗城と「四侯会議」が開催された。

しかし、四侯会議は徳川慶喜によって頓挫させられ、島津久光は今までの公武合体路線を辞めて、武力倒幕路線を目指す事になる。
こうして、薩摩藩は武力倒幕を行う事に決し、大久保利通が長州の広沢真臣を伴って岩倉具視を訪ね、天皇になったばかりの明治天皇より「討幕の密勅」を得た。
この情報をいち早く察した徳川慶喜は、同日に大政奉還の奏請を行い、朝廷は島津久光に上京を命じた。

しかし、この時、島津久光は病気のため、代わりに藩主・島津茂久が藩兵3000人を率いて、途中、長州藩と出兵協定のうえ、京に入っている。

西郷隆盛と大久保利通は岩倉具視ら倒幕派公家と、1867年12月9日、王政復古の大号令を明治天皇に宣言させ、新政府を樹立。

1868年1月3日、大坂城に集まっていた旧幕府軍が上京を開始し、鳥羽・伏見の戦いが始まり戊辰戦争が開始された。
西郷隆盛は、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破り、江戸城に軍を進める。

そして、勝海舟と交渉の末、4月11日に江戸城の無血開城を実現させた。
その後、西郷隆盛は上野戦争も制し、のち庄内藩との戦いを指揮したが、庄内藩に対しては黒田清隆に寛大な処分をするよう命じている。

参与に命じられた大久保利通と小松帯刀(小松清廉)は新政府にて主導し、明治2年には参議となると、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制を確立させた。

しかし、1870年(明治3年)、小松帯刀(小松清廉)は、下腹部の腫瘍が悪化し死去している。享年36。

島津久光は、鹿児島県(薩摩藩)にて引き続き実権を握り、新政府では急進的改革を批判した。

大久保利通は、明治4年(1871年)、大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として木戸孝允、伊藤博文らと外国を訪問。
外遊中には、三条実美と西郷隆盛に留守を任せたが、その間に問題となった、朝鮮出兵を巡る征韓論にて、西郷隆盛や板垣退助らと対立。
帰国すると、明治6年政変にて西郷隆盛は失脚し、鹿児島に下野した。

西郷屋敷跡

明治6年11月、鹿児島に戻った西郷隆盛は、大半を武村の自宅で過ごした。
このとき、鹿児島には、西郷隆盛を慕って同様に政府の役人を辞めたたくさんの若者がおり、有志の者が西郷隆盛に頼み軍事の私学校を創設した。

なお、明治7年1月、大久保利通は政府に不満をもつ島津久光と西郷隆盛を説得するも失敗に終わっている。
明治7年(1874年)2月、江藤新平が佐賀の乱を起こすと、大久保利通は自ら鎮台兵を率いて遠征し鎮圧した。

明治9年(1876年)3月、廃刀令が出ると、かつて倒幕で働いた旧藩士らは士族最後の特権も奪われて憤慨。
島津久光はその後、勝海舟らの要請を受けて政府に関与したが、明治9年4月、鹿児島に戻り隠居生活に入った。
しかし、依然として政府に反発して、生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめなかったと言う。

そして、11月、日当山温泉にいた西郷隆盛のもとに、私学校の者らが決起すると報がもたらされる。
この時、西郷隆盛は「いま自分が出れば若者を煽るだけなのでまだ温泉にいるが、立つと決めたら世間を驚かすことをする」と述べた。


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明治10年(1877年)1月20日頃、私学校の生徒が火薬庫を襲い、政府は鹿児島県士族の反乱が近いとみて山縣有朋が熊本鎮台に警戒命令を出している。
これを聞いた西郷隆盛は、大隅半島から鹿児島に戻ると約30000の士族が集結し「東京に進軍して政府を詰問すべし」と決する。

これに対し、大久保利通は京都にて政府軍を指揮し、 山縣有朋ら70000を九州に派遣した。

西郷隆盛としては、自分がたてば、各地の正負に不満を持つ士族も後に続き、大きな抵抗にあうことなく、東京に行けると言う公算があったのだろう。
しかし、熊本城を包囲してみると、熊本城に籠っていた熊本鎮台の政府軍(官軍)が強固に抵抗するので驚いている。

田原坂の戦いなど、官軍は連射できるガトリング砲を用いるなどしたため、西郷軍は苦戦を強いられ、小倉電撃作戦も失敗。

敗戦続きの西郷軍は9月に、鹿児島の城山まで追い詰められ、城山が官軍70000にて包囲されてしまう。
西郷軍は僅か372名にまで減っていた・・。

西郷洞窟

それでも、桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太と、西郷隆盛らは最後の突撃を行う。
西郷隆盛は股と腹に被弾し、別府晋介にこう語りかける。
「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」

明治10年(1877年)9月24日、別府晋介の介錯にて自刃。
西郷隆盛、享年51(満49歳没)であった。

西郷隆盛終焉之地

明治天皇は西郷の死を聞いた際「西郷を殺せとは言わなかった」と言い、悲しんだと言う。

大久保利通は、家族にも内緒で西郷隆盛から届いた最後の手紙2通を常に持ち歩き読んでいたとされるも、明治11年(1878年)5月14日、征韓派6名の士族に襲撃され命を落とした。享年49(満47歳)。

なお、西郷隆盛は賊軍の将として扱われたが、明治天皇や黒田清隆らの努力もあり、明治22年に正三位が追贈され名誉を回復している。


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鹿児島・照国神社

照国神社(てるくにじんじゃ)は、照国大明神(第11代・島津斉彬公)を祀る神社です。

照国神社

島津斉彬の遺志を継いだ弟・島津久光と甥・島津忠義が、鹿児島城の西域にある南泉院郭内にて島津斉彬公を祀る計画を立てます。

そして、1863年5月11日に孝明天皇の勅命による「照国大明神」の神号授与を受け、祠を造営しました。
1864年には社殿を造営、照國神社が創建されています。
下記は境内にある島津斉彬の銅像です。

島津斉彬の銅像

他にも境内には島津久光の銅像と島津忠義の銅像もあります。

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