女城主・井伊直虎の波乱に満ちた生涯と優れた領主としての見どころ


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2017年のNHK大河ドラマおんな城主・直虎」で女優の柴咲コウさんが演じる「井伊直虎」(いい-なおとら)とは、どんな戦国武将だったのでしょう?

ドラマの題材でもわかるように、井伊直虎は男性のような名前ですが、女性が家督を継ぎ城主として井伊家を切り盛りしたと言うことになります。
この井伊直虎と言う女性は、生涯独身を貫き、女性ながらも見事な手腕にて、遠江・井伊家が断絶する危機を救いました。
その結果、井伊直虎のあとを継いだ、井伊直政と言う武将は、徳川家康を支える「徳川四天王」のひとりとされ、彦根城主18万石となり、幕末には大老・井伊直弼を排出するに至りました。
このように井伊家が存続し幕末まで彦根藩主として続いたのも、生きるか死ぬかの過酷な戦国時代の中、井伊家を守った女性・井伊直虎がいたから他ならない訳です。

女領主となって、家名を存続させた「女地頭」とも称される浜松の女傑・井伊直虎は、いったいどんな女性でどんな人生を送ったのでしょう?


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井伊直虎は、遠江・井伊谷(静岡県浜松市北区)の小さな領主である、井伊谷城主・井伊直盛の娘として生まれました。
大河ドラマでの初名は「おとわ」となり、最初から井伊直虎と称した訳ではありません。
また、実際の名前は不明です。
母は新野親矩の妹・祐椿尼とされますが、井伊直虎が生まれた誕生年は不明です。

この頃の浜松は今川義元の勢力が台頭しており、井伊家も今川家に従っていました。

なお、父・井伊直盛は男の子に恵まれず、また姫も1人だけであった為、井伊家に婿養子を迎えようと、この姫の名を「次郎法師」(じろうほうし)と名付けたとされます。
次郎法師(じろうほうし)とは、2つある井伊家の惣領名、すなわち本家と分家が称した名称となる「次郎」と「法師」を合わせた名となり、井伊家の家臣らの結束を促すと言う意図もあったようです。

迎える婿養子は、父・井伊直盛の従兄弟である井伊亀之丞(井伊直親)(いい-なおちか)で、叔父に当たる井伊直満の子となります。
幼い頃に婚約したこの2人は、成長した暁には結婚する予定となったのですが、戦国時代の荒波にもまれて行きます。

この家督継承に不満を抱いた、井伊家の家臣・小野政直が、井伊亀之丞(井伊直親)の父・井伊直満らを自害に追い込みます。
そして、命をも狙われるようになった井伊亀之丞(井伊直親)は、信濃へ逃れて10年間も身を隠す事になりました。

そのため「おとわ」(井伊直虎)は、失意の中、僅か10歳くらいで髪をおろして出家し、祐圓尼(ゆうえんに)と称したようです。
出家とは普段の生活を捨てて、僧侶となり修行に励むと言う事です。
井伊直虎の場合は女性ですので、尼僧になり、生涯独身を貫きました。
これは、許嫁(いいなずけ)であった井伊亀之丞(井伊直親)が、信濃から戻ってきた際には、すでに奥山朝利の娘(奥山親朝の娘とも)を正室にしていたため、井伊直虎は結婚をあきらめたとも言えるでしょう。

そんな中、尾張統一を果たした織田信長を討つために、今川義元が大軍を率いて尾張へと向かいます。
当然、父・井伊直盛ら井伊勢も今川義元に従って出陣した訳ですが、1560年、桶狭間の戦いで今川勢は大敗を喫してしまいます。
主君・今川義元も首を取られましたが、おこわの父・井伊直盛も討死し、家臣の多くも命を散らしました。

この頃までに今川家に戻っていた井伊直親が、井伊家の家督を継ぎますが、今川義元が討たれた混乱の中で、三河の松平元康が自立の動きを示し、織田信長と清洲同盟を結びます。
この事で、井伊家の家中も動揺し、家臣・小野政次の企みで、井伊直親は暗殺されてしまいました。
そのため、まだ2歳の遺児・井伊直政が井伊家の当主となったのです。

しかし、頼りの長老・井伊直平も、今川家を継承した今川氏真の命を受けたとされる飯尾連龍(飯尾備前守)の妻・お田鶴の方(椿姫)によって毒殺されてしまいます。
そして、幼い井伊直政(虎松、万千代)にも身の危険が迫ったため逃れる事となったのです。

こうして当主不在と言う危機的な状況となった井伊家の「中継ぎ」として、女性ながらも次郎法師(おとわ)が当主に就任し「井伊直虎」と改名することになったのです。
これも諸説ありますが、龍潭寺(りょうたんじ)の和尚である南渓(南渓瑞聞)が考えた生き残り策ともされ、出家していた祐圓尼(井伊次郎法師)は「井伊直虎」と名乗って、井伊家の当主に就任しました。

戦国時代では、家督を継げる男子がいない場合には直系の女性が家督を継ぐ事がありますが、祐圓尼(次郎法師)を「男」として還俗させて「井伊直虎」と男性とも受け取れる名を称させると言うのは大変珍しいです。

不思議にも今川氏真もこの家督継承を認めて、井伊家は存続できた訳ですが、これには井伊直虎(井伊次郎直虎)が、女性国人領主・女性城主となった事で、かえって井伊家がまとまったとも考えられますので、井伊直虎の人望そのものかも知れません。

そして、井伊直虎は出家していた井伊直政を呼び戻して自身の養子に迎え、英才教育を施こすと戦国屈指の武将へと育てたのです。
また、井伊直虎は自らの足で領内を歩いて周り、産業復興などを進めるなど善政を敷いたため、次第に家臣らの信頼をも得て行ったと言います。

今川氏真より再三に渡り、農民に対しての徳政令(借金の帳消し)を迫られた際にも、瀬戸方久ら商人を保護し、井伊家の資金調達を優先させました。
このように領内経営手腕に優れていた為、井伊直虎は「女地頭」と呼ばれたのです。

しかし、またしても家臣・小野政次(小野但馬守道好)の裏切りにあい、居城・井伊谷城を失ってしまいます。
既に今川家も衰退し、今川家の家臣らは武田信玄に臣従する者も多かったのですが、井伊直虎の決断は徳川家康でした。

井伊直虎は井伊谷三人衆(近藤康用鈴木重時菅沼忠久)と、三河の徳川家康(松平元康)の力を借りて、井伊谷城を奪還すると、以後は徳川家に臣従します。

しかし、今度は1572年に、信濃から武田信玄が三河に侵攻したため、龍潭寺も炎上し、敗れた井伊直虎と井伊直政らは徳川家康の浜松城へと逃れました。
そして、徳川家康は三方ヶ原の戦いにて武田信玄に惨敗します。
しかし、武田信玄は病に倒れ、1573年4月に甲斐へ帰国途中の駒場で亡くなくなり、井伊谷城に復帰できています。

その後、1575年、井伊直政は徳川家康に見いだされ、徳川家康の小姓として300石に取り立てられるのです。
これが、井伊直政がのちに井伊の赤鬼と呼ばれ、徳川四天王として大活躍するキッカケとなりましたが、井伊直虎が南渓和尚(南渓瑞聞)などがお膳立てしたとも言われています。

このように井伊家の滅亡危機を、女性ながらも見事な手腕で救い、務めを果たした強き女武将・井伊直虎は、井伊直政の成長を見守りながら晩年を妙雲寺にて過ごします。
そして、織田信長が明智光秀本能寺の変で討たれた約3ヶ月後となる、1582年8月26日、龍潭寺・中松岳院にて死去しました。
推定ですが享年は47と考えられます。

その後、家督は22歳の井伊直政が元服して継ぎ、徳川家康の養女(松平康親の娘)を正室に迎えました。

なお、井伊直虎の墓は、井伊家の菩提寺・龍潭寺で、許嫁であった井伊直親の隣にあります。

以上の井伊直虎に関しては、諸説があり、正しいことはわかりにくいです。
上記に関しても、できる限り公平に記載させて頂きましたが、戦国時代のその他の武将などに関しても、良く分かっていない事がありますことを念頭に置いてご理解を賜りますと幸いです。

更に詳しく井伊直虎について知りたい方はこちらをどうぞ
井伊直虎ゆかりの地を楽しく観光~お勧めスポットベスト10【おんな城主・直虎】
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