西郷隆盛とは~1分でわかる薩摩の英雄・西郷吉之助 信義を貫いたせごどん


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西郷隆盛(さいごうたかもり)は幕末の薩摩藩士。通称は西郷吉之助。
西郷どんは、敬愛と親しみ込めて「せごどん」と呼ばれる。
貧しい下級武家であったが、読書を好み、藩主・島津斉彬に意見書を出すと見いだされて、江戸に赴き国事に奔走。
しかし、島津斉彬が亡くなり、勤皇僧の月照と錦江湾に入水するも、1人生き残り、幕府の追及を逃れる為、藩の命により奄美大島に3年間逃れた。




その後、大久保利通らの助けで藩政に復帰すると、京都での志士たちとの接触が島津久光に疑われて、徳之島と沖永良部島に流罪となり、2年間の牢人生活をした。この時足を悪くし、感染症にも掛かる。

第一次長州戦争の戦後処理にあたった頃から倒幕に転じ、1866年には、坂本龍馬の仲介もあり、長州藩の木戸孝允と謀って薩長同盟を結び、1867年、王政復古を成功させた。
その後、戊辰戦争を官軍の参謀として主導し、勝海舟、山岡鉄舟らの懇願も受けて江戸城無血開城を実現させ、明治維新の基礎を確立した。

西郷隆盛の銅像

明治となると、鹿児島に退隠したが、三条実美や大久保利通ら新政府の要請を受けて、明治4年(1871年)に新政府の参議に就任。
明治天皇の信頼厚く、日本初の近衛都督陸軍大将に就任し、政治面でも難題だった廃藩置県など日本の近代国家建設へ大きな枠割を果たした。
その後、朝鮮攻めの征韓論に反対して和平論を唱え、岩倉具視、大久保利通らと決別し、辞官して鹿児島に帰郷した。

薩摩には多くの者が西郷隆盛を慕って、下野した為、私学校を設立し教育に携わる。
しかし、一大勢力と化し、政府に目をつけられ、私学校の生徒が暴走すると、明治10年(1877年)に西南戦争を起こすに至る。
熊本まで進軍したが、圧倒的な兵力の政府軍に敗れて鹿児島に戻り城山に籠もった。

西郷洞窟

そして最後の決戦を挑み、銃弾を浴びると自刃した。享年51。

もっと詳しく西郷隆盛を良く知りたいと言う場合には下記をどうぞ。
写真つきで、出来る限り詳しく記載させて頂いております。

西郷隆盛 【西郷吉之助】詳細版~薩摩藩が排出した幕末の英雄

なお、西郷隆盛の魅力などについては下記にてまとめてあります。

西郷隆盛の魅力や人気の秘密は?なぜみんなから慕われるのか?
大久保利通(大久保正助、大久保一蔵)~詳細版~日本史上最高の政治家
伊集院須賀と伊集院兼善・伊集院兼寛とは~西郷隆盛最初の妻である須賀はどうして離婚したの?
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